『人はどう死ぬのか』『読書感想』『足るを知る』

今回書かせていただく読書感想は『人はどう死ぬのか(著者:久坂部 羊)』についてである。

筆者である久坂部 羊さん医師として国内だけでなく海外でも数多くの人の死に出会ってきた、人の考えは時と共に変わっていくものだが、死へ対する思考の変化と思想を深めてきた方なのではないだろうかと勝手ながら予想する,,,

どんな本なのか

タイトルのとうり「どう死ぬか」について書いた本である。

人の死に際を想像すると、なんとなく病気になったり何となくなくなって行くというイメージを持っている方が多いのではないのだろうか。

しかし現実においての死とはある時人生という時間軸の先にある「終わり」という点ではない。その「終わり」の前に「終わり」と向かうプロセスが存在するのだ。

そしてそのプロセスこそが死とどう向き合うかにとても大きな影響を持っている。なぜなら実際に問題になるのは「死」ではなく死ぬ前の「どう死ぬか」「どう死へと向かうか」だからである。

そのプロセスをどう受け止め、どう向き合うかについての内容が書かれた本である。

今回は以下の3つの点に絞り読書感想文を書いていきたい。

ふつうの死の場合

人はどのように死へと至るか

人の死に方は死に至る原因により異なる。

例えば交通事故に遭ったり、心筋梗塞によりいきなり亡くなることもある。しかしこのような死は死へと至るプロセスが存在するわけではない。

そのため本書では死へと至るプロセスについて、ふつうの死と呼べる老衰を例にとり解説している。

老衰死であるが、本書によると一般の老衰死に対する安らかなイメージと現実は違うようである。

実際にはゆっくりと体が衰え、意思疎通ができなくなっていき、体が動かせなくなると、排泄物や清拭などのケアが必要になる。

その後体が十分に弱り、死が近づくと患者さんは昏睡状態へと入のだ。

昏睡状態に入ると一切の表情が消え、やがて呼吸中枢の機能の低下により下顎呼吸と呼ばれる呼吸が始まる。

この下顎呼吸が始まると回復の見込みはゼロになると本書が説明している。

やがて無呼吸が入り混じるようになり息を引き取る。

衰えやがて死ぬのが文字どうり老衰なのだ。

ではいわゆる世間一般にある死のイメージや死へいたるプロセスはどのように作られているのだろうか。

本書はメディアの影響が大きいと説明する。

今日において身近であるとは言えない「死」に触れる機会は主にメディアに存在している。

メディアは嘘はつかないが、全てを見せるわけではない。

そこに現実とのずれが生じている。

ここで問題となるのが、死へとどのように向き合うかが直接どのように死へ至るかに関係していることだ。

つまり、実際に死を目の前にして生きている一個人の人とその人の様をとり編集しているメデイアの間にはずれが主じる。

人々が実際に死を目の間にした時に重要なのは、個人としてどう死と向き合うかであり、どのように見られるかや、他社からの評価は必ずしも重要とは言えないのだ。

このことは、「死をコントロールしようとすると生まれる不安定さ」と関係性がある。

死をコントロールしようとすると

生まれる不安定さ

時代と共に私たちの平均寿命は伸びてきた。

子供のうちに死ぬことも少なくなり、人々の寿命も伸びている。

これはいいことのように思える。

しかし、本書は生きれるだけ生きることが必ずしもいいことだらけでないことを指摘している。

100歳まで生きれるのと,100歳まで死ねないのは違うというのだ。

医療の世界において死を作り出すことはとても難しい。

死にそうな人がいればその人の命をできるだけいい形で伸ばすのが医者の仕事だ。

だけどもし重体の老人が運び込まれてきたらどうだろうか,,,その人を死なせるわけにはいかない。

どのような形へと命を伸ばすかではなく、命をいかにして伸ばすかにフォーカスが当たるとも言える。

これはその老人や家族または医師の意思だけで判断できる問題ではないからだ。

例えば老人の容体が急に悪くなり緊急搬送されたら、病院も医師もどうにかその老人の命を助ける、伸ばすしかない。

全力を尽くしたのち、結果がどう転ぶかを見なければいけないのが、病院や医師なのだ。

実際本書も医師が法律による制約や患者さん、患者さんの家族などの思いに板挟みにされていることを書いている。

しかし、すでに書いたが、命を延ばせるだけ伸ばすとことは必ずしもいいとは限らない。

このように医療が発達した現代においてはいつ死ぬのがいいのかという問題が出てきている。

言葉を変えると死の絶対否定によっては解決することのできない課題があるのだ。

この死の時期に関する話は主に二つに分けれる。

一つは、ガンなどで死ぬことが(できる)事が分かりそれに向かって生きること。

もう一つは積極的な安楽死や尊厳死である。

本書によると安楽死と尊厳死の違いは以下のとうりである。

安楽死とは、苦痛を避けるために、致死的な薬、たとえば呼吸停止を引き起こす筋弛緩剤や、心停止を引き起こす塩化カリウムなどを投与することで、患者さんを意図的に死なすことです。

人はどう死ぬのか

尊厳死とは、尊厳のない状態を避けるため、生命の維持に必要な医療を中止して、患者を死なせることです

人はどう死ぬのか

日本では安楽死も尊厳死も法律では認められていない、皆さんも安楽死のために海外に行くという人を見たことがあるのではないのだろうか。

日本では安楽死も尊厳死も殺人として扱われてしまうのだ。

さて死の時期に関する話で一つ目に死期がわかる死をあげた。

ある時、複数の週刊誌が医者に理想的な死に方のアンケートをとったようなのだ。

その時一番に躍り出たのがこのガンである。

本書は消去法によりガンが一位になったようであると説いている。

いきなり事故や、脳梗塞などで死んでしまうことは死ぬ準備ができない、しかし逆に老衰で死ぬのも不自由、不如意と長い間付き合わなければならない。それならば,,ということのようなのだ。

面白いのは、やがて人は死ぬという視点をここに持ちこむことで、どう死ぬかは問題ではなくなるというのだ。

つまり、死に方は色々あるが、それは死ぬときにならないとわからない、期待せずに来るものに身を任せようというのである。

つまり、死期がわかるのも、死期がわからないのも本質的に大きな差があるわけではないのだ。

さてここで少し話を戻し、尊厳死と安楽死について考えてみたい。

この二つはむしろ死期を求めている、作り出すものである。

つまり人の意志が関係しているのである。

人の意思とはとてもぼんやりしている。

さらに患者だけではなく、家族や医師の意思がこうさする、その中に殺人でないと言える法律を作らなければいけない。

実際に本書は安楽死や尊厳死の賛成、反対派の意見をまとめています

賛成

・死ぬ以外に極度の苦しみから逃れることができない場合に必要。

・医療によって無理やり生かされることは、人間の尊厳を損ねる。

・人には自分の最期を決める権利がある。

人はどう死ぬのか

反対

・尊厳死も安楽死も命を見捨てる行為である。死んでもいい命などは存在しない。

・命はいったん失われたらもどらないから、早まった行為は慎むべき。

・尊厳死や安楽死は、いわゆる〝滑りやすい坂〟だから、いったん許容すると、坂道を滑るように歯止めが利かなくなる。

・社会的圧力や周囲への遠慮などで、本人が望まない安楽死や尊厳死が行われる危険性がある。

・家族や医療者が自らの利益のために、法律を悪用する危険性がある。

人はどう死ぬのか

本書の筆者は反対派の一番である生の絶対肯定は疑問視しているものの、その他の意見についてはは無視できないと説いている。

つまり、現実的に死について考えると、どのような理想を作り出すか以前に人の人生にどこまで影響を与えて良いのかといった論点が浮き上がるのだ。

では自分自身の人生についてはどうだろうか。

余命宣告をされた時、どのように受け取れば良いのだろうか。

将来人が半永久的な寿命を獲得したとしたらどうだろう。

人に寿命があるという事実に私たちは意味を見出さなければいけない時代が来るのかもしれないのである。

死とどのように向き合うべきなのか

死とどう向き合うかという問題は生どう向き合うかと背中合わせ、同じものであると言っても過言ではないかもしれない。

そして生とどう向き合うかとは、そのまま人生をどう生きるかという話と直結する。

つまり、人生を切り開く人生観そのものがどう死ぬかに直結するのである。

これはとても当たり前のようだが、実際に死と向き合った時明確に浮かび上がるのはどう生きるか等ことではないのだろうか。

ではどのような生き方が最も死と共存していると言えるのだろうか。

その前にそもそも私たちの人生とはどのようなものなのか。

自分の人生の中にどれほど自分でコントロールできることを人は持っているのだろうか。

実はとても少ない。

ギリシャの哲学者セネカは自分の体すらも借り物であり、この世に自分が所有しているものなどは一つもないと説いた。

貴方の体は運命により与えられたものであり、貴方により作り出されたわけではない。

貴方が頑張って稼いだお金もある時には紙屑と化すかもしれないし、人に盗まれるかもしれない。

しかし、たまたまの偶然、駅で生涯のパートナーを見つけることもあるかもしれない。

運命とは人に感謝しきれない恩赦を与え、時に歯を噛み砕きたくなるような絶望や悔しさを人に与える。

セネカは運命こそが人生かもしれないが、運命に翻弄されずに生きることが賢い生き方なのではないかと説いたのである。

自分でのコントロールできないこともこの世には沢山ある。

その中で事足りる範囲で生きれたらそれで良いのではないのか。

有り余るような財産も運命の悪戯で無と返すかもしれない。

身につけた知識が全て白く帰ってしまうかもしれない。

つまり普遍的な人生の柱となるようなものは人生にはないのである。

しかしその中で今自分が立っている地面を一歩ずつ踏み締めていけば、人生っぽくなるのではないだろうか。

本書の筆者も「足るを知る」この言葉がなんだかんだ言って死と向き合うとき重要であると説いている。

整理

  • どのように死ぬかは、どのように生きるかでもある。予想だにしない変化が人生では起こる。
  • 死ぬときは死ぬ流れに逆らいすぎないことも時に大事になる。そのためには「たるを知る事である」

まとめ

本書読んでいて、とても面白かった。

少し的外れかもしれないが、この本の一番良い点は作書の経験談がとても多く入っている点ではないかと個人的に思う。今回私が読書感想をかくにあたり削りに、削ってきた箇所であるが、本書は筆者の経験によって支えられて形作られている本と内容である。またいつもながら今回のブログの内容も私の勝手であり本書の筆者の意図してることではない。

本書に興味を持った方はgoogleで『人はどう死ぬのか(著者:久坂部 羊)』と調べたら見つかるはずである。 もしくは以下のリンクから飛んでいただけるとアソシエイトリンクになっているので大変助かる。

最後に本書の締めの文の一部を引用させていただきこのブログも終わりとしたい。

父に教わったことですが、感謝の気持ちを深めれば、不平も不足も不満もかすみ、自分に与えられた多くの恵みや親切、幸運に気づき、穏やかな気持ちになれる可能性が高いです。  何やら最後はお坊さんの説教のようになってしまいましたが、やはり上手な最期を迎える秘訣は、いろいろな方策を求めることではなく、自分の都合を捨てて、あるがままを受け入れる心の準備が肝要ということではないでしょうか。

人はどう死ぬのか