イマヌエル・カントが生きていた18世紀のヨーロッパは、啓蒙時代(Enlightenment)と呼ばれ、科学と理性が重視され、伝統的な宗教や権威に対する批判が高まっていた時代でした。
この時期にはニュートンの物理学が発展し、経験論と合理論の対立が哲学において大きなテーマとなっていました。
経験論は知識が感覚的な経験に基づくとするす、べての知識は感覚経験から得られるという立場(ロック、ヒュームなど)。
合理論は知識が理性によって得られるとする、理性によって先天的に備わっている知識があるとという立場(デカルト、スピノザ、ライプニッツなど)のことです。
カントはこの両者の対立を克服し、新たな認識論的立場を確立するために、批判哲学を提唱しました。
平たくいうと人間の認識の限界をまず明確にし、その上で理性と経験の働きを説明しようとした人で、またそのアプローチのために理性と経験についての議論にうまく橋を渡した人です。
カントの思想は大きく二つの時期に分けることができます。初期の「前批判期」(Pre-Critical Period)と後期の「批判期」(Critical Period)です。
1. 前批判期(1747年~1780年頃)
この時期、カントは主に科学や形而上学に関心を持っていました。カントはニュートン物理学に強い影響を受け、宇宙の構造や自然哲学に関する著作を発表しました。たとえば、彼の初期の著作『一般自然史および天体論』(1755年)では、宇宙の形成過程についての理論(現在では「カント・ラプラス仮説」として知られる)を提唱しています。
この時期のカントは、主に合理論的な立場に立っていたものの、デビッド・ヒュームの懐疑論に影響を受け、経験論の重要性も次第に認識するようになります。特にヒュームの「因果関係」への批判は、カントにとって決定的な影響を与えました。
ヒュームは私達は直接的な感覚体験を超えたものを完璧に理解することはできないと考えていました。
このような懐疑主義な考えはカントに私達の知識はどこに、何により範囲があり、設定されているかについての理解を深めようとする働きに関与したと言えます。
その中でカントは、経験だけでなく人間の認識能力そのものに焦点を当てる必要があると考えたようです。
2. 批判期(1781年~1804年)
1781年にカントは『純粋理性批判』を発表し、哲学史における転換点を迎えました。この著作において、彼は認識の限界を理論的に探り、知識がいかにして可能であるかを説明しました。カントは、経験に基づく知識(感性的直観)と、理性によって認識される知識(悟性的概念)を区別しました。そして、人間は物自体(Ding an sich)に直接アクセスできず、私たちが認識するのは物自体ではなく、それが私たちに現れる現象に過ぎないと主張しました。これを「コペルニクス的転回」と呼び、認識主体である人間が認識の枠組みを決定するという考え方を導入しました。
前批判期は『純理』刊行(1781)前の時期を指し、批判期以後は『純理』刊行以降の著作を指します
ただカントについて書く前に、まずそもそもなぜ知識について考えることが重要視されるようになったかについて考えていこうと思います。
なぜ知識が重視されるのか
知識は物事を理解し、認識し、概念化する能力や情報の集合を可能としている概念です。
例えば、私達はりんごをどのようにりんごとして捉えるでしょうか?
過去にりんごを見たから、もしくはイデア論のように私達がりんごというイデアを知っているからでしょうか?
つまり認識という行為、そして認識の中で対象となり得る対象は知識との相対的な関係により浮かび上がるという考えがあるということなのです。
これは物の本質とは何かという古代ギリシャで生まれた問いと密接に関係していると言えるでしょう。
具体的には、りんごを見て「これはりんごだ」と認識できるのは、過去の経験や教育を通じて「りんご」という概念が知識として頭の中に存在しているからです。この場合、知識は以下の要素を含んでいます。
1.感覚的知識: 視覚や触覚などを通じて、りんごの色、形、質感、匂いなどを認識します。これは感覚を通じて得られる情報です。
2.概念的知識: りんごが「果物」であり、「赤いことが多い」「食べられる」など、りんごに関する概念や特徴を知っていること。これは言語や概念の理解に基づくものです。
3.経験的知識: 過去にりんごを見たり食べたりした経験から、りんごをりんごとして認識し、名前を知っていること。経験を通じてその対象を理解する知識です。
このように、知識は単なる情報ではなく、認識のプロセス全体を含んでいます。物事を理解し、それに対して名前や意味を与え、さらにはそれを他者と共有できる能力も知識の一部です。
りんごをりんごとして認識できるのは、私たちの思考の仕組みが、感覚的な情報を処理し、それを「りんご」という概念としてまとめ上げているからです。このプロセスを通じて、知識が形成されていると言えます。
つまり知識なくしては私達はいわゆる意味のある認識をすることはないという考えです。
世界をありのままに見ようとする東洋哲学としかしなぜ認識そのものが可能であるかを考えた西洋哲学の大きな違いの一つとしてあげることができるかもしれません。
また共通しうるものは知識の形式を決定するものとして存在しているという考えがあるとも捉えられます。
カントの批判哲学の概要
お待たせしました、ここからカントの主に批判哲学(の純粋理性批判)を中心とし記事を書いていきます
カントが示した大きな考えの一つは、私達の知識は私達の外側の世界によりではなく、私達が世界に持っている認識のあり方により、それに沿ったものとして作られるという考えです。
カントの批判哲学は三つの著書に分かれ説明されています。
批判哲学と呼ばれているのは、カントの哲学へのアプローチの仕方が、確かなもの、また確かであると言える概念を作り出しているそのものを定義した上で思考を組み立てていこうという道筋に沿っていたためです。
『純粋理性批判』(1781年)
認識論に焦点を当て、知識がどのようにして成立するかを探る。ここでは、感覚と悟性が協力して経験世界の認識が可能になると説明し、物自体は人間の認識を超えていると論じます。
『実践理性批判』(1788年)
倫理学に焦点を当て、人間の行動を導く理性の役割を探る。この著作で、カントは「定言命法」(Categorical Imperative)を提示し、普遍的な道徳法則を基礎にした倫理体系を提唱します。これは、人間は自律的に道徳的な法則に従うべきだとする思想です。
『判断力批判』(1790年)
美学と目的論に焦点を当て、自然と自由、感性的なものと理性的なものの橋渡しを試みます。美的判断や目的論的自然観について論じています。
自然と自由などの概念は跳躍しているように見えますが、これは実践論理批判での自律的な道徳を可能とするものとして、すでに純粋論理批判の中で下火としてあったものが明確化されたものです。
カントは『純粋理性批判』の認識論の中で、物理的な自然の法則に合わせ、それを超えた「自由」の領域が存在する可能性について言及しています。ここでの「自然」は、我々が経験的に認識する因果的に決定された世界を指し、「自由」は理性がそれ自体で規定する行為の原則を意味します。しかし自由がどのようにして可能なのか、またそれが人間にとってどのように機能するのかについては、純粋理性批判では明確にされていません。
その後『実践理性批判』では、カントは自由の問題を倫理学的に展開します。ここでカントは、道徳的な行為が可能であるためには、理性が自らの法則に従って行動できる「自由」が必要であると論じます。彼の「定言命法」は、人間の自由が自律的に道徳法則を定立し、それに従うことで実現されると説明されます。これにより、「自由」は人間の実践的理性の中心的な概念となります。
最後の『判断力批判』で、カントは「自然」と「自由」の調和を探求します。この著作では、自然の美や目的論(自然の中にある目的的な秩序)を解釈するための判断力が、「感性的なもの」と「理性的なもの」を橋渡しする役割を果たします。特に美的判断や目的論的判断において、カントは人間の理性が自由でありながらも、自然の秩序との調和を感じることができるとしています。ここでの「跳躍」に見えるものは、自然の法則(認識論)と自由な意志(倫理学)が判断力によって結びつけられるという、カント独自の解釈の帰結です。
したがって、『判断力批判』での「自然と自由の調和」は、実践理性批判での自律的道徳に関連し、純粋理性批判での理論的な基礎に依拠していると言えます。
カントの三つの批判哲学書、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、そして**『判断力批判』**は、近代哲学の礎を築いた重要な著作であり、それぞれ異なるテーマを扱いながら、全体として一貫した哲学体系を形成しています。
まずは純粋理性批判について書いていきたいと思います。
『純粋理性批判』(1781年)
概要
『純粋理性批判』は、カントの批判哲学の出発点となる著作で、認識の限界と知識の成立条件を探求します。
主な内容
カントは、従来の哲学が「世界が我々にどう現れるか」を探ってきたのに対し、「我々が世界をどう認識するか」に焦点を当てました。この転回により、我々の認識が世界を構成すると考えたのです。
私達が認識でき得るものが何かについてまず考えることが最初に明確にされるべきであるという考えのもと思考が形作られていきます。
この条件のものてで認識の限界について考えることが求められ、その上で知識が成立し得る条件を探そうとする試みが生まれます。
感性と悟性の協働
カントは、我々の認識は「感性的直観」と「悟性的概念」によって構成されると考えました。
感性的直観は、物が私たちに与える生の感覚データであり、悟性的概念はそれを理解するための枠組みです。これにより、我々の認識は、感覚によって受け取ったものを、理性によって整理して初めて知識として成立します。
物自体(Ding an sich)
カントは、我々が認識するのは「現象界」に属するものに過ぎず、物そのもの(物自体)は認識の対象外であると主張します。我々は物自体を直接的に知ることはできません。これが、カントの認識の限界に関する洞察です
「感性的直観」と「悟性的概念」についてもう少し掘り下げましょう。
感性的直観(Sinnliche Anschauung)
感性的直観は、私たちが外部の世界から得る生の感覚データのことを指します。
物体や現象が我々の感覚器官に働きかけることで、視覚や触覚といった感覚的な印象を受けます。
つまり感性的直観は、物が私たちにどのように現れるかという生の素材
認識に上がる前の情報、実際の例えば目の前にある花などから視覚が取り入れたものを指します。
しかし、これだけではまだ「知識」には至りません。感性的直観は、感覚に依存しいます。
つまり、赤や青といった視覚的な情報などは、感覚それ自体の上において意味を持つこともなく、またそれを人の意識の上で認識可能としえる能力もありません。
たとえば、我々は景色そのものを(物自体)を直接的に捉えているのではなく、感覚器官を通じて、空間的に配置された形や色などの印象を受け取っています。これが「感性的直観」によって得られる素材です。
ではそれらの素材が認識されるのはなぜなのでしょうか。
カントはそれは悟性的概念により可能となると考えます。
悟性的概念(Verstandesbegriffe)
悟性的概念は、感覚から得た生のデータを整理し、理解可能な認識として構成するための枠組みを提供します。悟性(Verstand)は、「理解力」や「理性的思考力」を指し、感覚データを分析し、概念化する働きをします。
カントは、悟性が「カテゴリー(範疇)」と呼ばれる基本的な概念の枠組みを使って、感覚データを整理し、意味づけると考えました。(全部で12個)
カントは、悟性概念は経験に先だって、人間が世界を認識するために不可欠な「先験的な」ものであると主張しました。つまり、人間は生まれながらにして、世界をある特定のカテゴリーで捉えるようにプログラムされているようなものです。
逆にいうとそのカテゴリーによって理解されないものは理解されることはありません。
しかし、この考えにはまだ妥当性がありません。
つまり現時点ではある不思議な仕組みがあり、その仕組みの中において人の認識は出来上がるということしか説明していないからです。 そのためカントは『純粋理性批判』において、カテゴリーの妥当性を「超越論的演繹」という方法で正当化しようとしました。これは、経験が可能であるためには、カテゴリーが必要不可欠であることを論証する試みです。
カントの「超越論的演繹」
カントの「超越論的演繹」は『純粋理性批判』の中心的な議論の一つで、カテゴリーの客観的妥当性を証明しようとする論証です。
- 超越論的演繹の目的:
- カテゴリーが経験の対象に適用可能であることを示す
- カテゴリーが経験の可能性の条件であることを証明する
- 主観的な思考の形式が客観的な世界に適用できる理由を説明する
まず「カテゴリーの経験が対象に適応可能であることを示す」ですが、カントは経験の可能性からの逆推論によりこれを紐解きます。
- 出発点:我々が一貫した経験を持つことができるという事実
- 論証:この経験が可能であるためには、何が前提として必要か
これは例えば私達が何の意図もなく景色を眺めているときにも、そこに人して認識を持っているがために自然に意識以前において行われてしまう仕組みのことを指しています。
例えば、景色の中の物体を一つの対象として認識したり、動きを連続的なものとして捉えたりすることがこれに当たります。
カントが考えたカテゴリーは、私たちが経験を「一貫したもの」として認識するための基礎的な条件として考えていました。
「一貫したもの」とはぼんやりとした概念のように思えますが、「一貫したもの」がない状態を想像してみるとわかりやすいですが、無理といえます。
どのような状況についても人が作り出せる概念はどれも「一貫したもの」を含んでいることがわかります。
またこの無意図的な一貫性は、後に意識的に注意を向けたときに、その経験を理解可能なものとして再構成するための基礎となります。
つまり、その花が一貫した同じ花であるという発見を経験(記憶)の中にできるのはその一貫性の中において作り上げられた知識の中に私達が生きているからということになります。
(一方で、現象学的な観点からは、このような前理論的な直接経験の純粋さを重視する立場もあります。フッサールなどは、理論的前提を排除した「現象」そのものの記述を試みました、また禅などの東洋思想では、概念化以前の純粋な経験の可能性を示唆しており、これはカントの理論とは異なる視点を提供しています。)
少し出てきましたがカントは超越論的演繹の目的の一つである「カテゴリーが経験の可能性の条件であることを証明する」ということについて以下のように考えています。
カントが考えるカテゴリーは人の意識外においても働き、人が意識した対象についても働きます。
つまり記憶はカテゴリーにより記憶となりますが、その記憶を意識する場合はその記憶の認識もカテゴリーにより可能となるのです。
カテゴリーは感覚データを受け取る瞬間から働き、経験を構成します。
つまり経験はカテゴリーにより構成されます。
そして意識的に注意を向けたとき、カテゴリーによって構造化された経験が明確に認識されます。
カテゴリーは経験を作り上げる過程と、その経験を認識可能なものとする過程の両方に関与していると解釈できます。
そのため、カテゴリーは経験が可能性の条件であると同時に、その経験が認識可能となるための条件となるのです。
では「主観的な思考の形式が客観的な世界に適用できる理由を説明する」はどのように証明されるのでしょうか。
カントの「主観的な思考の形式が客観的な世界に適用できる理由」の説明は、彼の認識論の核心部分であり、「コペルニクス的転回」と呼ばれる彼の革新的なアプローチに基づいています。
すでに述べたようにカントは、従来の哲学が「世界が我々にどう現れるか」を探ってきたのに対し、「我々が世界をどう認識するか」に焦点を当てました。この転回により、我々の認識が世界を構成すると考えたのです。
これはつまり「客観性」と呼ばれるものは、対象物自体の性質ではなく、普遍的で必然的な認識の形式として再定義できるということです。
何を見ているかでなく、どう見ているかに注目すればそこには人に共通するものがあるのではないかと考えたのです。
花が花として客観性を帯びるのは、花が花であるからではなく、人が花をあるカテゴリーにより認識している。そしてその認識が「客観性」を帯びる。そう考えたのです。
この理論は、認識論と存在論の関係を根本的に再考させるものであり、後の哲学に大きな影響を与えました。しかし、同時に多くの批判も受けており、特に「物自体」の概念や、アプリオリな形式の普遍性に関しては議論が続いています。
ここからはさらにカテゴリーを可能としているもについて考えていきます。
そのためにまずカテゴリーの素材、つまり悟性が働きかける前の状態を作る感性的直観について考える必要があります。
少し話が戻りますが感性的直観について説明をしていきたいと思います。
感性的直感とは
時間と空間は、カントの理論において「感性的直観の形式」と呼ばれ全ての基礎となる枠組みを形作っているものです。
カントの間gなえでは私たちが外界を認識する際、あらゆる経験や感覚を通して得られる事物は、必ず時間と空間という形式を通して私たちに現れます。
時間と空間は感性的直感を可能にするための二つの異なる形式ですが、それぞれが異なる役割を果たしています。
空間は、物体が我々の感覚にどう現れるかを決定する形式です。
ここで注意をして欲しいのはカントの哲学における「空間」は、確かに現代の物理学や数学で考えるような「三次元的な空間」とは少し異なる捉え方をしている点です。
カントにとって、空間は物理的な法則性や測定可能な次元ではなく、我々の感覚的認識における「枠組み」としての役割を果たすものです。
空間の二次元的・三次元的捉え方
私たちが日常的に「空間」を二次元的または三次元的に捉えるのは、主に物理的な体験や視覚に基づいています。たとえば、絵やディスプレイは二次元で表現されていて、そこに「奥行き」や「遠近感」を加えることで、三次元的な物体として認識します。これは、我々の感覚器官(主に視覚)が、二次元的な情報を処理し、脳がそれを三次元的に補完して解釈するというプロセスです。
しかし、カントが「空間」を感性的直観の一部とした背景には、こうした物理的な次元の話というよりも、認識の主観的な条件という意味があります。カントにとって、空間とはまず「物が我々に現れる仕方」であり、その「現れ方」が三次元であるか二次元であるかは、あくまでその枠組みの上に生じるものです。
カントのいう空間
カントにとって、空間は我々が物体を捉えるための形式であり、それ自体が物理的な法則ではありません。空間を三次元的に感じ取るというのは、我々の感覚器官による「感覚的直観」であり、その感覚的なデータを元に悟性が概念を適用することで、物体の「三次元性」が認識として形成されます。つまり、我々が空間を二次元的に捉えることや、三次元的な物体をイメージすることは、空間という「枠組み」に基づいた枠組みがあるからこそ可能となる認識に依存しています。
カントの考えでは、空間という枠組みはその形式を先天的に持っているものであり、物が「三次元的に感じられる」というのは、空間的な認識の中でその物を知覚し、概念的に理解している結果です。したがって、物理的な空間法則や三次元的な法則性は、私たちが知覚した空間の形式を理性的に解釈しているものと考えることができます。
感覚的直観によって得られる空間は、物事がどのように私たちに現れるかを定める主観的な条件であり、その結果として、物を「三次元的に」知覚できることを可能としているものであると捉えられています。
カントは空間と合わせ時間にも注目しました。
カントは時間は物事がどう変化し、どう連続していくか、つまり物事の順序や持続を決定する形式だとします。
時間は空間とは異なり、すべての感覚に対して普遍的に作用します。つまり、我々が経験するすべての事象は時間の中で変化し、連続します。
カントは、時間と空間は「私たちの感覚的直観の条件」であり、経験に先立って存在する「先験的」なものだと考えました。つまり、時間や空間は私たちの認識の外部にあるものではなく、人が物事を認識するために必要な構造であると考えたのです。
時間は、物理的な空間の変化として説明できるかのように捉えることもできます。
しかしカントの時間は、物事の変化や出来事の連続を可能にするための独自の形式であると考えました。
たとえば、ある物体が空間の中で位置を変えることは、時間的な変化に依存していますが、時間そのものを空間の変化として捉えることはできません。
つまり、ものの動きそれはそのものという概念を超えたものだり、その超えているところに時間を当てはめたとも取られられます。
変化を作り出すことのできる可能性、それを時間によって示す枠組みが人には備わっている必要があると考えたのです。
しかし、時間が存在していると認識するそれ自体は、あるものが連続的に同じものであると認識されて初めて可能となります。
関連性がないものの連続には時間という概念が現れることはありません。
実際にカントは、人がある物体が連続している、つまりその物体とこの物体が同一であると認識し、判断するために「統覚の統一」と呼ばれる理論が必要であると考えられていたことがわかります。
以下で詳細を説明します。
統覚の統一(統一的な自己意識)
すでに述べたようにカントは統一的な自己意識(「統覚」(transcendental apperception))が、あらゆる認識の根本にあると考えました。
これはさまざまな感覚データが一つの意識の中で統合されるプロセスを指します。この統覚がなければ、感覚的な情報は断片的で、連続性や同一性を感じることはできません。
これは逆にいうと意識というものにより認識をしているからこそ生まれる制限であるとも考えることができます。
カントは、「カテゴリー」と呼ばれる先天的な認識の枠組みが、我々の認識を可能にする要素だと述べました。その中で「同一性」というカテゴリーが、物体が時間を経ても同一であると認識する際に働いています。
このカテゴリーは、我々が感覚を通じて得た経験的な印象を、論理的に整理するために用いられます。つまり、物体が異なる時間や空間に現れた場合でも、それを「同じ物体」として捉えるために同一性のカテゴリーが作用していると考えたのです。
因果性と同一性の判断
さらに、カントの理論では、因果性の概念も同一性の認識に重要です。因果性とは、物事が一定の法則に従って変化することを意味します。物体が時間を経て存在し続けるとき、その変化や位置が因果的に連続していると認識することで、「これは同じ物体だ」と判断できます。
例えばリンゴが木から落ちて転がるのを見たとき、そのリンゴが動いている間に形が変わらず、因果的にその運動が追跡できることで、転がる前と転がった後のリンゴが同一のものだと判断できるのです。
感覚と悟性の協力
最終的に、カントの認識論においては、感覚(感性的直観)と悟性(概念)の協力によって、物体の同一性や連続性が認識されます。感覚は物体の生のデータを提供し、悟性がそのデータをカテゴリーを用いて処理します。この協働があるからこそ、私たちは物体が連続して存在し、同一であると判断できるのです。
カントの哲学における物体の同一性や連続性の認識は、統覚の統一によって感覚的な情報が一つの意識の中で統合され、さらに同一性のカテゴリーや時間的連続性、因果性の概念が組み合わさることで成り立っています。これらの要素が協働することで、我々は異なる時間や状況においても同じ物体を認識し、その物体が連続して存在していると判断できるのです。
知識の形成について
認識は悟性的概念によって可能となります。
感性的直観から得たデータは統一的な認識として形成されます。これは、感覚的な素材に対して理性が働きかけ、それを秩序立て、経験的な現実として理解できるものにするプロセスです。この過程がなければ、私たちは単に無秩序な感覚の集まりしか持つことができず、意味のある知識を得ることはできません。
テーブルを見る際、ただその色や形を感覚として受け取るだけでは、それが「テーブルである」という認識にはなりません。悟性がその感覚的素材に「物体」や「形状」といった概念を適用し、「テーブル」という対象として理解します。
感性と悟性の協働
カントの認識論では、感性的直観と悟性的概念は互いに協力して知識を形成します。感覚だけでは生のデータしか得られませんし、悟性だけでは何も認識する素材がありません。両者が協働することで、我々は「経験世界を認識」することが可能となります。
感性的直観と悟性的概念の関係
カントは、「感覚は空虚であり、概念は盲目である」と述べました。これは、感覚によって素材が提供されなければ悟性は働くことができず、逆に悟性的概念がなければ、感覚は無秩序で意味を持たないということです。感性的直観が素材を提供し、悟性的概念がそれを整理して初めて、私たちは認識(Erkenntnis)を得ることができるのです。
感性的直観の段階
あなたが花を見たとき、最初に目に入るのはその色や形、大きさといった視覚的な情報です。これが感覚器官を通じて得られる感性的直観のデータです。ここでは、花そのものを直接知っているわけではなく、目を通じて得た印象があるに過ぎません。
悟性的概念の段階
この感覚データを整理するために、悟性が働き、あなたはそれが「花」という認識を作り出します。「これは花だ」「これは咲いている」といった概念は、悟性によって感覚データに意味を与えることで生じます。
カントはカテゴリーにより私達が普段見ているような世界が可能となると考えました。
つまり、例えば目の前のものが実際にあると人が感じることができるのもそれは人がすでにそのことを認識し得る土台を持っているからだと考えたのです。
カントはカテゴリーにより私達が普段見ているような世界が可能となると考えました。
つまり、例えば目の前のものが実際にあると人が感じることができるのもそれは人がすでにそのことを認識し得る土台を持っているからだと考えたのです。
まとめ
しかしカントのカテゴリーについての考えには反論もあります。
カントは全ての面で完璧な論理を建築したわけではありません。
また例えばカントは、『純粋理性批判』において、「物自体」という概念を提唱しました。これは、人間が直接認識することのできない、認識の背後にある「真の実在」です。カントは、我々が経験できるのはあくまで「現象」であり、物自体は人間の認識を超えているものです。
しかし、この「物自体」の概念には、多くの哲学者が批判を向けました。特に、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルやフリードリヒ・シェリングなどのドイツ観念論の哲学者は、物自体の存在を認識できないにもかかわらず、それを前提にすることが矛盾していると批判しました。彼らは、「物自体」について何も語ることができないならば、それを存在するものとして仮定するのは無意味ではないかといった批判などもあります。
しかし、歴史に大きな跡を残したことは間違いありません。
次回は今回の記事の続きとして実践理性批判についての記事を書きたいと思います。