『無(最高の状態)』『無我とは』『読書感想』

人の不幸や幸福はなぜ生まれるのでしょうか。

本書は哲学、仏教を中心に長らく語られてきた疑問を科学的な実験をもとに組み立てなおした、心理学的な側面が強い本です。

以下の四点に焦点を当て今回のブログを書いていきます。

  • なぜ人は苦しむのか
  • なぜ私が苦しいといった自己概念を人は持っているのか
  • 自己概念は苦しみの原因なのか
  • 無我とは

なぜ人以外の動物は苦しみを引きずらないのか

チンパンジーをはじめ、像などさまざまな動物が感情を持つことは広く知られていることです。

彼はら人間と同じように、仲間が死ねば悲しみ、傷がつけば痛みを感じます。

あるクジラが死んでしまった子クジラの遺体を連れて延々と泳ぎ続けていたという話もあります。

多くの哺乳類が「苦」という感情を持っていることはさまざまな研究からもわかっていると筆者は説明します。

しかし、それでも動物たちは慢性期な不安や鬱を経験することはありません。

では、なぜ人間は立ち直れないほどの絶望、さらにそこから派生する2時的、3時的な感情を含め、「苦しみ」をここまで拗らせているのでしょうか?

人間の知能が高いためでしょうか

数十年後の資産形成や、幅広いネットワークの中に住んでいるからなのでしょうか

しかし、それだけでは「苦しみ」を拗らせる原因にはなりません。

本書は生きている中で起こる数々の苦しみには共通点があると説明します。

それは「苦しみとはニーズが満たされていない状態」です。

状態Aと現在の状態のギャップから生まれたもの、それが苦しみとなるというのです。

人の感情は人の行動にとても大きな影響力を持っています。

人に、今何が必要なことか知らせる機能、それが感情であるといってもいいかもしれません。

  • 怒り=自分の境界が壊れた、崩されたことを知らせる
  • 嫉妬=他人が重要な資源を持っているというこを知らせる
  • 恐怖=危険な状態になることを知らせる
  • などなど…

これらの感情がない場合、人は人であることはできません。

原始仏教の経典「雑阿含経」には次のような話があります。

ある時、ブッタが弟子たちにある問題を出しました。

「一般の人も、仏弟子も人であることは変わりない。

それゆえ仏弟子とて、時に喜び、時に不快であると感じ、憂いを感じることもある。

では何が、一般の人と仏弟子の違いなのだろうか」

ブッタは静かになってしまった弟子達に向けて次のように言いました。

「一般の人と仏弟子の違いとは二の矢が刺さるか否かである」

実際にこの話はとても鋭い話です。

なぜなら人は往々にして、自身で自身を傷つけるような、反芻的な思考に陥りやすい。

事実を受け止めるだけではなく、そこからさらに悪い結果や、結果になってしまうであろうという考えを持ちやすいのです。

ここから、この一の矢と二の矢その後の矢について書いていきます。

一の矢は闘争本能や、体に瞬間的なストレスと密接に関係しています。

しかし近代の研究ではアルドレナリンやノルアドレナリンによって引き起こされる、闘争状態の維持は4から6秒ほどで、下降し始めることがわかっています。

これは闘争状態に入って4から6秒ほどで前頭葉の活動が活発になり、大脳辺縁系を抑えにかかるためです。

そこからさらに10から15分ほどで人の脳はほとんど、通常のレベルにまで状態を戻します。

つまり、一の矢にはそこまで持久力はないのです。

またこれは闘争本能に限った話ではありません。

また、ある実験では被害者に今食べたいものを思い浮かべてもらいました。

被害者は各々、チョコレートやコーヒ、ニコチンなど今食べたいと思っているものを思い浮かべ自身の渇望を高めます。

その後被害者のグループを2つに分け、片方にテトリスのゲームを3分間だけプレイするようにしました。

その後、2つのグループの渇望の強さを比較したところ、テトリスをプレイしたグループは役24パーセントほど渇望レベルが下がっていることがわかりました。

これは、渇望に関係していた、ドーパミンレベルをテトリスをプレイしている脳が保つことができなかったためです。

ドーパミンはおよそ10分ほどで消えると言われており、一般的にいう、オナ禁中の自己規制としての運動は効果があることがわかります。

このようにある現象に対してフィードバックとして浮き上がる感情は意外と長くは続かないことがわかります。

なぜなら感情は強く脳内物質と関わっており、脳内物質は時間と共に平時の状態に戻ろうとするためです。

つまり、一の矢は時間によってやり過ごすことができるのです。

では二の矢はどうなのでしょうか。

神経物質の影響は数分で消えます。

ではなぜ、私たち人間はその後も気持ちが戻らないことがあるのでしょうか。

それは自身で、苦しみを作り出しているからに他なりません。

それが二の矢、三の矢と自身に突き刺さるのです。

では、二の矢、三の矢はどのように生まれるのでしょうか。

苦しみを生み出すのはニーズが満たされないからであると冒頭で述べたとうり、二の矢その後の矢も自身でニーズを作り出ししまっているかであると捉えることができます。

この世の中は常に変化します。

しかし面白いことに、人は自分が自分であるということにとても大きな確信を持っています。

自分が何であるかや、自分をどう認識するかという問題は認知的自己、対話的自己、埋没的自己、経験的自己など数十種類に及ぶパターンが科学の世界には存在します。

しかしその中でも「私は常に同じ人間である」という考えは科学、哲学などを含めある程度のコンセンサスがあると本書は説明します。

この話は、二の矢のきっかけになります。

例えば上司から怒られという状態を想定しましょう。

この時、上司から怒られたあなたはさまざまな感情が生まれます。

怒られている論点であったり、上司の態度、その日の機嫌などなど様々な要因と考えが頭をよぎるのではないのでしょうか。

面白いのはネガティブな思考とは自身にとってネガティブであるということであり、基本的には自分を中心として広がっていくことです。

実際に自己にこだわる人ほどメンタルを壊しやすいという傾向があることもわかっています。

専門的には「自己注目」と呼ばれる状態であると本書は説明します。

では、私たちのニーズを作り上げている自己とは何なのでしょうか。

苦しみの原因は自己であるのか

本書は1940(1942)年代に書かれた山月記のストーリをもとに自己意識が苦しみを生むということについて説いています。

山月記の主人公の李徴は秀才な男でした。

李徴はやがて詩人になり名を上げるため、官僚の職を辞退します。

ところが上手くいかず、失敗してしまします。

その後、官僚の仕事へと戻るのですがプライドと恥ずかしさで人と関わることができませんでした。

やがて李徴は幻の術を使い虎へと姿を変えます。

李徴は物語の後半で「己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう」

と説いています。

己が消えれば苦しみも消えるというのは的をいった指摘です。

では私たちも、李徴のように、自己を消し去るべきなのでしょうか?

そのためには自己とは何であるかを考える必要があります。

自己とはなにか

哲学の世界においては自己を自我の支配者だとみなしたニーチェ、心と肉体の関係を強調したキルケゴール、主我と客我の関係性に重きを置いたミードなど、無数の考え方が存在します。

しかし本書は科学の世界においてはある自己についての理解度がある程度深まってきていると説明します。

科学の世界においての自己はどのような捉えられ方をしているのでしょうか

科学の世界において自己とは、人の感情や思考を作り出すベースであるとは捉えられていません。

自己とは人が認識できる感覚の一つです

そして感情をはじめ人の感覚には何かを知らせる、注意を向けさせる働きがあります。

自己という感覚も、その道具の一つであると科学の世界では捉えることができるのです。

つまり「私は私であり貴方は私ではない」という自己を他者と分ける感覚には何かしらの働きがあるというのです。

近代の心理学では自己が持つ働きを7つに分けています。

言葉を言い換えると7つの実際は独立した働きをまとめて自己と言っているとも言えます。

  • 人生の記憶(エピソードとして記憶を保存すること)
  • 性格の要約(自身の大まかパーソナリティーを見つけ出すこと)
  • 感情の把握(外部からの反応を感情として認知すること)
  • 事実の知識(自身に関するファクトを認知すること)
  • 連続性の経験(現在の自身が過去の自身と同じであると認知すること)
  • 実行と所有感(自分が自身の肉体の所有主、行動権を握っているという考え)
  • 内面の精査(自身の行動や思考をモニタリングし、さらに反復、深める)

そしてこれらの感覚は脳のことらる部位、連携のもと成り立っています。

つまり、脳の中においては自己といった確立した感覚のためのネットワークはないのです(自己が持っている機能をすべて1つの仕組みを通して行なっているわけではなく、複合的な機能によりなりたている)。

私たち異なる機能、ネットワークの出力を私だと思っているだけであるということになります。

さらに私たちは自己が消えても活動をし続けることができます。

私が私であるという感覚はいろんな場面で消えます。

例えばゲームや小説にのめり込んでいた時

我を忘れて何かに没頭したことがある人も多いのではないのでしょうか?

お風呂に入っている時や友達話している時もそうかもしれません。

脳が作った物語が

世界観を作り上げる

人の脳はおよそ0.1秒で物語を作り上げることができます。

物語とは点と点をつなぎできるものです。

世の中には数多くの引っ掛け問題が存在します。

その多くは人が自動的に作り出す物語の抜け目を狙ったものであると言えます。

またそれだけではなく、世の中に存在する物理的なものの動きなども物語、脳の予想能力が働きます。

脳の視覚は実はそれほど早い処理能力を持っていません。

しかし人は咄嗟に体を投射物から皮したり、バトミントンやテニスのプレイをすることができます。

実はテニスやバトミントンなどは視覚だけに頼っていては処理が追いつかず、テニスできません。

それには経験からなる脳の予想能力と、物語を作る力が必要なのです。

人は過去の記憶を元に、自分が今から作り上げるであろう物語を予想するようにできています。

これは脳の省エネにもつながります。

本書は人間が物語の力を使うようになった主な理由は日常生活でのリソースの削減であると、時ます。

人間が常に新しい情報に触れながらも、過去の記憶からのストーリに沿った予想を立てることで、すでにある感覚を使うことで、脳のキャパを保つことがで着る仕組みを作ったのです。

例えば、日常生活において、よくおこうなう動作などでは、小さなトリガーを元に脳は過去の記憶からストーリーを作り出します。

この時、聴覚や嗅覚などの情報はほどんど弾かれ、処理されないと言います。

このようなストーリ形成の力は様々なところで働きます。

人は自身が作った物語の住人である

人は新しい人に会った時、1000分の1以下の時間で過去の記憶を元に目の前の人のイメージを作り上げます。

問題なのはこのような無識によるストーリの引き出しが時によくない影響を人に与えることです。

例えば、人に無視された時、脳はその状況に会ったストーリをそれまでの経験を元に作り出します。

これは過去の記憶の参照や、現状の状態の良し悪しの判断を見極めるための効率化と呼ぶこともできるかもしれません。

脳は状況に会ったそれらしい物語を作り上げるのです。

この時、作り出されたストーリが忙しい人はそっけないという物語なら問題なのいのですが、自分に価値がないからだというストーリが作り出される場合、それは精神にとって良くないものになりうると本書は説明します。

物語はさらに物語を作り出し、そのプロセスが2の矢,3の矢となります。

脳の中において過去の出来事は、物語は「AだからBになる」というように保存されています。

以前紹介した、自己が持つ7つの働きにある「性格の要約」なども「私は人見知りなので、大勢での集会は苦手だ」といったように記憶されます。

脳は常に情報を主旨選択し物語を作り続けています。

瞬間瞬間の無意識な行動、取り込んだ情報の好みまでその物語により作り出されたものであるとするならば、私たち人間は自分が作り出した物語の中に住んでいるといってもいいかもしれません。

このことは反対に脳が作り出したマイナスの虚像もそれが現実そのものかであるように私たちからは見えることを指名しています。

また、脳は視覚や聴覚からの情報だけではなく、体の体調などに応じても敏感に物語を作り上げます。

これは、人の意識が普段見つけ出すことのできないような小さな変化も含んでいます。

例えば、血糖値の動きやコレステロールの値などに応じても、体は自身が普通の状態ではないということに気がつくことができます。

そのような状況において、小さな引きが何より脳が自身が普通でない状況を正当化する物語を作り出すことは納得がいくのではないのでしょうか。

自己概念は環境により変化し

普遍的な人格は存在しない

人間は、新しい環境や人間関係の変化により、自分が別人になったような気になることがあります。

このような現象が起こるのは「私」という概念が複数の物語との関係性により作り出されているからだと本書は説明します。

私たちは、自己という共通の概念を持っているように見えて、実は特定の確固たる自己観念を持っているわけではありません。

例えば人は、すべての家族関係、友人関係などの中で完璧に一貫したキャラクターを演じている話ではありません。

このことについて実感がある人は多いのではないでしょうか。

複数の人間関係の中におてい、人は、関係性に応じて違う自己概念を作り上げます。

なぜなら、自己とは主体ではなく、物語によって作り出された、結果や見方の1つであるからです。

それと同時に、自分というものが実は虚像に過ぎず、追い求めても見つからないものであることを示しているとも言えるのではないでしょうか。

人は自分の物語を正当化する物語を作り出します。

論理的に考えれば全く繋がりのないものであったりしても、脳が作り出した物語の中に収まる、確からしく見えてきます。

それでもなお、私が私である理由

さて私たちの世界観は脳によって作り出さた物語で出来ています。

本書はこの脳が作り出す物語には主に2つの特徴があるといいます。

それが以下の2つです。

  • 常に物語を作り続ける。
  • 自分の物語が唯一正しいと思い込み、それに気づくことができない。

物語を作る続けながらも、その思い込みに気づくことができない…

みるからに出口のない仕組みを私たちは持っているように見えます。

ではこの自己意識の問題をなくす手段などはあるのでしょうか。

自己は物語から生まれるものであるということをここまで説明してきましまた。

ではその物語はなぜ生まれるのでしょうか。

それは自己防衛のためです。

つまりみの危険を察知しそこから逃げる、対処する働きを持っているのです。

本書はこの自己防衛が作り上げる面白い研究を紹介しています。

幻聴が聞こえる、統合失調症

統合失調症とは頭の中で他の人のが「お前はダメなやつだ」「嘘つきやろうと」とまるのリアルであるかのように聞こえてくる。

ところが2014年にスタンフォード大学がアメリカ、ガーナ、インドで統合失調症の患者にインタビューを行い、「頭の中の声が言っていること」「誰が話しかけてきているか」などの調査を行った。

その結果アメリカ人を襲う大半の言葉はネガティブで暴力的、憎しみに溢れていたのに対し。

インドやガーナの農村部の人が聞く声には「正しく生きよ」「いい日がきた」などのポジティブな声が混じっていることがわかった。

これに対し調査をおこなた人類学者のターニャ・ラーマンは

アメリカでは自身が聞く声を「狂気」であると認知し直そうとするのに対し

インドや、ガーナなどでは先祖からの伝言や、神からの声であると認知することがポジティブな声が聞こえるのではと言っています。

また場所ではなく、年代が進むにつれ統合失調症の患者が聞く声がよりネガティブなものになっているという研究もあります。

本書は個人主義的な傾向が強まったことが原因の1つであるのではと説明しています。

さらに、本書は防衛本能は争っても消えないということを説明しています。

苦しみに抗っても苦しみは無くならない。

抵抗が問題を生むという考えは古くからありました。

この発想は古くから存在し、中国の老子は紀元前300年ごろに「人生は自然に起こる変化と自ら起こす変化のくり返しである。それに抵抗すれば不幸を生むだけだ」と指摘。インドのヨガ指導者シュリ・チンモイは「降伏とは混乱から平和への旅だ」と語り、自己の感情に抵抗しない態度を強調しました。

鈴木祐. 無(最高の状態)

2014年ブリティッシュコロンビア大学が健康な女性対象にしたテストを行いました。

そのテストでは対象者全員に高負荷のサイクルトレーニングをしてもらい、二つのチームに分けたのち、片方のチームには「不快な感情をできるだけ受け入れるように」というアドバイスを与えました。

その結果アダバイスを与えなかったかグループに比べて、主観的な辛さが55パーセントもへり、疲労困憊で動けなくなる時間が15パーセントも長くなったとのです。

本書は人は抵抗

  • 怒り狂う
  • 引きこもる
  • メタに身を置く(暖かも自分が他の人とは違う次元にいて、自身が正しく、他の人は未熟や未知であるといった思考)
  • 見栄を張る
  • 頑張りすぎる
  • 刺激に頼る

などの表現方法を通して表すと説明しています。

どのパターンにおいても不幸や、ストレスを完璧に紛らわすことはできず、結局は頭打ちになってしまいます。

本書はこのことをまとめ現実に降伏せよと説いています

痛みに抗うことなく、受け入れること、これは反芻的な思考や現実に起こった不幸な出来事など様々なことに言えます。

アマゾンに住んでいるピダハン族は世界で1番幸せな人達であるという話があります。

では何が一体彼ら彼女らをそこまで幸せな状態においているのでしょうか。

ピダハン族にはある特徴があるといういいます。

それは事実しか喋らないということです。

彼ら彼女らは未来のことや、過去のことを滅多に話さないだけでなく、宗教や架空のお伽話も持っていません。

未来や過去を認識していないということではありません。

彼らは可能性の薄い話をすることはありません、彼らは自身らのことを「まっすぐ部族」と呼び、外から来た人を「ひねくれ頭」と呼ぶといいます。

このことは幸福はロジックの理解により辿り着くものでないことも示しています。

実際哲学者も心理の本質的理解は感覚によってのみ可能であると、述べることがあります。

(興味のある方はこちらから『初めてのスピノザ』)

この感覚としての理解と並行して本書は複数の研究を紹介しています。

(感覚的理解と関係している研究)

今回は1つだけピックアップして紹介させていただきます。

アイオワ州立大学で行われたテストがあります。

そのテストでは496人の学生に「大学の構内を歩きつつ、すれ違った人たちの幸せを願ってみてください」と指示しました、

その結果12分の実践でも不安とストレスの大幅な減少が認めらたようなのです。

普段は何とも思わない通行人の幸福を願うことで、縁起性の感覚が高まったからだとその研究は位置付けているようです。

また実際に仏教には慈経行(じきんこん)というすれ違う人の幸せを願う修行があります。

自己意識は勝手に生まれ、勝手に消える

では現在に生きること、他者に意識を向けることの共通点はなんなのでしょか。

本書はこのことについて「今を生きている自分とは何なのか」という疑問を立て説明しています。

(本書は実は完璧な今を生きている自身とは何かについて書いていません。)

しかしその中から予想を立てると以下のようになります。

実は過去や未来という観念は存在しない。

つまり未来がどうなるかという考えは実際には現在の自分の精神状態に影響を与えることはない。

(未来に対しての予想がなくなるわけではない)

なぜならば、状態Aと状態Bの間には本質的価値の違いがないことを感覚的に理解しているためである。

全ては、連続的にみえ、非連続的であり価値の伝達も行われるわけではない。

個々の状態において完璧である。

さらにそのような状態おいて、自己と自己以外との間に境界は存在しない

なぜならば自己とは自己が作り上げた物語である。

目の前にあるコップは自意識の中においては自己に含まれおり、コップは自己そのもに本質的には含まれているものでです。

さらには他者も自己のコントロール外であるように見えるが、自己である。

そして本質的に自己は自身のコントロールできるものでない。

例えば目の前に見える木は絶えず動いている。

その木は貴方の物語、つまりは自己に包括されているものであるが、貴方の意思とは関係なく動いているものである

故に私達が見るこの世は、自己に含まれた絶えず動くコントロールの外にあるものとして自己の中で現れる。

それは自己意識の肥大化、もしくは自己意識の消滅による世界観の増大でもある。

常に変化する巨大な自己意識の中において、動揺するべきような物はない….

「迷いあるうちは心が景色に含まれている 見性してからは心が景色を含んでいる」と5世紀の禅僧、菩提達磨も行っているようです。

そのような状態の中において、本書はこのような無我の状態そのものではなく、無我作り出すと言われている叡智についての話を広げます。

叡智とは人生力のような物であると本書は説明します。

叡智を持つ人は人生経験を実践的な活動に変化するのがうまく、トラブルに慌てず、人の心がよくわかる人であると本書は説いています。

また長年の瞑想を行なってきた人を集めて行なった実験では

瞑想などのトレーニング歴が長いほど、開放性が高く、豊かな創造性を持っていると言われています。

また研究により短い瞑想の後なでも自己的な意識が弱まることにより、より他者への共感力などが向上することがわかっているようです。

これは自己が自己と自己に属さないものを分類する働きを止めたためであると言われているようです。

人生の中において、こうあるべきであるという考えが自己意識の低下により弱まるとも言えるのではないのでしょうか。

全てのものを新しい目で見ることができる。

そしてそのことが変化に対しての柔軟性や開放性をさらに広げる。

無我はそんな状態であると言えるのかもしれません。


ここまでお読みいただき本当にありがとうございます。

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踏んでいただけると大変ありがたいです。

以上重ね重ねになりますが、ここまで長文にお付き合いいただきありがとうございました。

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