『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』『自由とは何か』『読書感想』

今回の記事はスピノザのエチカについて

國分功一郎. はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)

の読書感想文記事(個人的に本書をまとめたもの)となっています。

エチカの意味はラテン語で倫理学

まず最初に本のタイトルに入っているエチカの意味について少し。

エチカはラテン語で倫理学という意味です。

エチカの語源はギリシア語のエートス(ethos)

エースとは慣れ親しんだ場所動物の巣、住処などを表すそうです。

お待たせしました、ここからスピノザの哲学について書いていきます。

神は無限である

スピノザの哲学の出発点は「神は無限である」という考えです。

神という概念に戸惑われた方がいるかもしれません。

スピノザは神の定理を以下のように説明しています。

神について

精神の本性及び起源について

感情の本性及び起源について

人間の隷属あるいは感情の力について

知性の能力あるいは人間の自由について

神に制限はなく

よってこの世全ての存在は神である。

故に万物は神だと捉えることができる

エチカ

つまりスピノザは自身含め、全ては神に包括されていると考えたのです

そして神は神そのものが完璧な存在として完結しており

外部からの影響を受けない。

これは、つまり神という枠組みの中において考えられた定理は

それ自体が自身によって完結することができるということを示しています。

つまりエチカは神という完璧な枠組みの中に定理を設定しようとしていたと言えるのではないのでしょうか。

いわゆる定理とは普通その定理が正しいことを証明するのに、違う定理を必要とします。

その終わりのないループを抜け出せる土台、それが神という無限の存在だったのではないのでしょうか。

スピノザのエチカ

この世の基準はあるのか

ここからスピノザのエチカについて書いていきたいと思います。

スピノザは世界において、いわゆる人が基準として用いいる完全や不完全であるという概念は存在しないと説明します

これは納得がいく考えなのではないのでしょうか。

例えば私たちは家という物体が役割を果たすための個々の機能の集まりとしての完全性を求めますが

その個々の役割とは人の主観以外の何ものでもありません。

このことについてスピノザはエチカで以下のように説明をしています。

善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。

(第四部序言)

ここで面白い点は、スピノザは善、悪の基準のない中で

行為の基準を作り上げていることです。

スピノザは行動や状態の良し悪しについての基準を以下のように定義しました。

aという状態の時に良いものとは(ある組み合わせにおいては)

aという状態から活動能力を増幅、あるいは促進させる物である。

本書では以下のように説明されています。

「憂鬱の人」、つまり落ち込んでいる人と音楽が組み合わされると、その人には力が湧いてきます。その意味で落ち込んでいる人にとっては音楽は善いものです。

「悲傷の人」というのは、たとえば亡き人を悼んでいる状態にある人のことです。そのような人にとっては、音は悲しみに浸るにあたって邪魔であるかもしれません。そのような意味でその人にとって音楽は悪い。「聾者」、つまり耳が不自由な人には、音楽は善くも悪くもありません。

つまりスピノザは良し悪しは組み合わせによって生まれ

はじめてのスピノザ 自由へのエチカ

良し悪しを決める絶対的な状態があるわけではないとといたわけです。

またスピノザは感情を大きく、喜びと悲しみに分けました。

より大きな完全性に映る時私たちは喜びに満たされ

例えば誰かを妬んでいる際はより小さな完全性へと私たちは向かい

活動能力が低下しているとスピノザは説きます。

また逆に人によって良いものとは

私とうまく組み合わさることにより

「活動能力を増大」起こすもの、状態であると述べます。

こ事をスピノザは、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」と述べました。

物質が物質たり得るのは

自己の有に固執する努力のためである

この活動能力に関係するものに

コナトゥス「conatus」があります

コナトゥスはある傾向を持った力と訳されます

例えば人の体は体内の水分を一定に保とうとする働きがあります。

おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。

〔引用者注:存在〕

ここでいう努力とは自身の状態を維持しようとする力のことです。

これはとても面白い。

そう思わないでしょうか。

物質の本質をコナトゥスとしたのは哲学界の歴史におていとても大きな変化でした。

古代ギリシャの哲学は物質の本質を形として捉えていました。

つまり外見として捉えることのできる状態をそのものの本質としたと言い換えてもいいのではないでしょうか

これに対し、コナトゥスをよういた物質の定義では物質とはその物質が包容している力によってその存在を保ち、存在を保っているというそのことが物質が物質たり得る本質としたのです。

これと同じように

情動(広い意味での感情のあり方)、

全く同じ情動を持っている人はいません。

おなじ情動を持っていないということは、ここが違った反応を受け取った情報に対して返すことになります。

つまりこの情動とは人が組み合わせとなり得る状態に対面した時

人がどのような状態を行動能力の促進と受け取るか、もしくはむしろ活動能力の低下として反応するかを作り出しているものそのものであるということになります。

そして刺激による変化をスピノザは

変状「affectio」と呼びました

変状とはあるものが何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を持つことを言います。

変状する力は、コナトゥスを言い換えたものです。たとえば暑さという刺激を受けると、発汗という変状が身体に起こります。これは熱を冷ますための反応であり、コナトゥスの作用ですね。

國分功一郎. はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)

もし物資の本質がある一定の働きを保とうとするものであり

働きを保とうとする働きそのものが物質であるとするなら

aの状態においてある刺激bに対しcという反応を起こすことは不可避である。

この状態においてd,eもしくはそれ以上の反応が起こることはありない。

そう過程できるとしたら

cはaがbの刺激を得た時に物質の存在を保存するために非可否なものであると言えるのではないのでしょうか。

なぜならaがbになれないということとはある状態の物質の消滅といえます。

力の働きを物質の本質とすると、

何かを欲する、もしくは成したいと思う「欲望」は物質の本質そのものであると言えます。

つまり欲望とは私たちがaの状態kらbを受け取った際のcであり。

必然的な表現であると捉えることができるのではないのでしょうか。

例えば人に悪口を言われ

それが気になり、対処をしようとする

そこには欲望があります。

そしてその働きの大きさは

誰に言われたか、どんな内容であったかによって変化します。

そしてスピノザはこれを関係性によって捉えました。

つまりより大きな良い欲望を生むも組み合わせ、

そしてより大きな悲しさを生む組み合わせがあるとしたのです。

この考え方は環境に重点を置いた考え方に繋があると思わないでしょうか。

人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。〔……〕これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。

國分功一郎. はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)

これは、情報がある場所に行くこと

すでにある刺激に気づくこと、気づく手段を手に入れことなどのことを指しています。

例えば絵の学習をすれば

日頃の世界の見方が変わるかもしれません

これもまた新しい刺激を増幅させることなのです。

または率直に何かを学ぶと言ったことも

スピノザは活動能力の増加に繋がり、有益だと説きます。

賢者は刺激を受け取る手段をたくさん持っている

すなわちいろんな物事を楽しめる人であると続けます

しかし私たちは、世界と関わる自分の体、精神すらもよく知りません

自分の事について理解を深めることは

刺激を増やす事に繋がります

これは自己成長の重要性の理由になるなっているのではないのでしょうか。

その中におていスピノザは自殺についても話を広げます

あえて言うが、何びとも自己の本性の必然性によって食を拒否したり自殺したりするものでなく、そうするのは外部の原因に強制されてするのである。(第四部定理二〇備考)

國分功一郎. はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)

つまり外部からの要因においてのみ

死にたいという欲望が形作られるというわけです

しかし死とは何でしょうか

スピノザは生から死へとうつるさい現れる特徴は、生と死の間にだけ特別にみられるものではないと説明します

例えば、事故に遭い記憶を全て失ったとします

その時貴方は事故以前の貴方と同じだと言えるでしょうか

多分難しいのではないでしょうか

では何が問題なおでしょうか

スピノザはここで特定の条件には注目せず

ある一定以上の情報の入れ替わりが起こった際に

情報の入れ替わった後の物質はそれ以前のものとは違うものになると説明します

そして今存在するものが情報以前の物質でない以上、今存在している物質とそれ以前の物質の間には死が存在していると言えます

スピノザは大人が以前子供であったことを信じられないほどに、生きている間にすら、大きな変化があるといます。

この場合いわゆる死とは、ある短期間の間にとても大きな変化が起こること言えるのではないのでしょうか。

つまり状態aから状態bへの変化がとても明確で、短期間だった場合

人はそれを死と捉えることができるのではないおでしょうか。

スピノザはこの事について以下のように説いています。

おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(第三部定理六)

國分功一郎. はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)

個物は神のある一定の方法で表現する容態です。

言い換えればそれは神の力、存在を一定の仕方で表現するという事であると言えるのではないのでしょうか。

つまり神のある(一部(しかし限りない))がある表現の仕方を獲得し他ものの集まりが私たちが見ている世界なのです。

死と生すらも含め存在しているのが神というわけです。

その中においてスピノザは精神が体を動かしているという考えを否定します。

精神と体の中での運動が同時に起きると考えたのです。

この時、例えば怒るときそれはある属性による表現の仕方です

例えば人の体と、人の精神が怒りを覚える際

それは人の体と、人の精神がそれぞれの表現の仕方をしており

それが怒りとして外に現れるという事になるのです。

精神が体に怒りを表現させるのではなく

精神と体がそれらの属性により怒りを表現するという事になるのでうs

一人一人の自由が社会の安定につながる

さてコナトゥスは存在を保とうとする力の働きのことを言っていました。

ではこのコナトゥスの働きは社会や、物質の関わりが生じる場所におていどのように働くのでしょうか。

コナトゥスの話はどの規模の話をするかに関わらず常に存在する定理です。

他とべあ人とは人というものを形作っているものの集合体であり

その集合体が作り出す力を具現化したものであるとも言えます。

社会と自由の重要性

これを社会に当てはめると、より活動能力ががる人と人の組み合わせを保っている状態が良い状態だと言えます。

『エチカ』では次のように言われています。人はコナトゥスがうまく働いて生きている時、自由である。そのように自由な人たちは、互いに感謝し合い(第四部定理七一)、偽りの行動を避け常に信義をもって行動し(同定理七二)、国家の共通の法律を守ることを欲する(同定理七三証明)。

國分功一郎. はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書)

そしてコナトゥスは要求そのものであるということも説明しました。

これは良い社会とは各々の要求(コナトゥス)の働きにより回っている社会だと言えます。

そしてその社会におてい、各個人の要求に沿って生きている人は個人の要求を追い求める自由があるという事なのです。

スピノザは他の著書(神学・政治論)で国家論にふれており

社会契約説的な発想をもっていることがわかります。

ただスピノザはいわゆる、社会的契約説的な発送とは違う考え方を持っていました。

社会的契約説的とは人々が安全のためどこかで一度集まり、社会的契約を結んだという事になっています。

しかし、社会的契約を結んだんと考える人はとても少なく、虚構的であるとも言われます。

それに対しスピノザは

個人個人が、個人個人と関わる、機会機会、それごとに他人の権利を尊重し、害を与えないように生活することこそが

社会的契約であると呼びました。

自由とは何か

さてエチカ全体を通して自由は大きなテーマであり

自由の獲得がこの本の目的だと言えます。

ではスピノザが目指した自由とは何だったのでしょうか

スピノザは自由を束縛の少なさから議論するのではなく

ある条件の中で、その条件に従い、いかに活動量を増やせるか

自由であると説きました。

そもそも生きるということにおてい制約がないことなどありません。

私たちは物理的な制約の中を生きています。

足の数や目の数

そして社会的な生活を続けるためにも数々の制約があります。

エチカでは自由の定義を以下のように書いています。

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(第一部定義七)

國分功一郎. はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) (p.72). 講談社. Kindle 版.

例えば魚は陸に上がって生きることはできません。

魚は水の中で生きなければならないといけないという制約の中で生きています。

しかし、魚が水の中で生きるという必然性にそい、水の中で泳ぐという行為をするとき

それは自由な状態である言えます。

それに対し、条件付きで自身の(存在)の、行動範囲(行動)を妨げてくるものがあったとき

その状態は強制されているとも言えるわけです。

例えば犬にお手をすることを覚えさせたとします。

この時犬は、人が手を差し出すという条件によって、手を人の手の上に重ねます。

これは人が手を差し出すという、ある一定の様式が現れた時

犬は自身の必然性にそい、手を重ねると捉えることもできます。

さらに犬はその状態において、お手を行う(行わない)以外の選択肢があることを知りません。

さらには人も、自身の体や自身の精神がいかにして動き

自身が今まで行ってきたこと以外の選択肢があることを知りません。

つまり私たちは自身の必然性(体や、精神を凌駕できない)の中に存在していながらも

その必然性を使いこなすことができないないのです。

自由は自己の本性の必然性のみによって存在し

自己自身のみによって決定される。

さてここからは少しちらついている、自由の制限、強制について話していきたいと思います。

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(第一部定義七)

國分功一郎. はじめてのスピノザ 自由へのエチカ (講談社現代新書) (p.72). 講談社. Kindle 版.

引用を見てみると、自由は必然性であるという一文が

必然性は強制とも言えると二つの意味を持っているように見えます。

これは日常的に必然であると言われる多くのもの

(例えばお金など)

はむしろ強制的であると言えるという意味だと解釈することができると

本書は説明します。

これは最後の文においては強制されるという言葉に意図的に重みをつけられているためです。

さて私たちは必然性の中で生きています。

私という人は身体的な特徴や、精神的な例えば変化をほとんどしない記憶を保持しているなどの

制限によってむしろ、私であるという本質を獲得していると言えます。

では強制とは何を指すのでしょうか

それは本来本質によって担保されている、存在や行動が外部から制限された状態を指します。

つまり本質が(必然性が)制限されている状態

それが強制なのです。

強制の状態とは何なのか

例えば父から虐待を受けていた青年が

父を見返そうと戦場に赴くという話があったとします。

これは青年からすれば必然性によっての行動と捉えることができす。

しかしもし、青年の本質が外部から(父)からの強制を受けなければ

きっと青年はより広い範囲での必然性を獲得できたのではと思わないでしょうか。

外部ならの制限は時に対象者が自身の命を見返らないような、必然性を強制的に作り出すのです。

さてここまで自身の本質とその外部からの力について書いてきました。

つまり自身の必然性の内部と、必然性の外との関係性について書いてきた事になります。

これは、必然性に影響を与える最初の波が始まる場所があるということでもあり

外部からその波が始まった場合、それは強制となり得るということとも取れます。

しかし逆に自身の中から、必然性へのアプローチの波が生まれた場合はどうでしょうか

外部からの原因ではなく、自身の中からの原因により動くことを

スピノザは「能動 action」と呼びました。

スピノザは自身が原因になって何かをなすとき、、私達は自分に対して能動的であると説明したのです。

つまり、人が自由な状態であるとき、それは同時に能動的な状態であると呼べるのです。

しかしここで問題が出てきます。

それはこの世界自体が神であるということです。

つまり私の中の原因も、外部からの原因も神からの原因となってしまうわけです。

そして私たちは、常に外部からの影響を受けています。

(今更ですが)

その影響を受けながら存在を保とうとしているわけです。

例えば水を飲みたいという要求は生きている状態を保つためのものかもしれません

しかし、水とは外部から入ってくるものであり、外部からの影響だともえます。

つまりいわゆる原因という割れる、影響力が始まる場所は自身の中にも外にも多々あり

たくさんあり。

完璧に自主的であることなどできるのかという疑問が湧いてきます。

原因と結果の関係性

原因は結果の中で自身の力を表現しているもの

しかしスピノザは結果と原因の関係性をどう考えていたのでしょうか

スピノザは結果と原因の関係を

原因が結果を引き起こすという時間的な流れに沿った概念としてではなく、

原因は結果の中で自らの力を表現しているものだとして捉えました。

スピノザは全てのものが神であり、体系や機能は表現としてそこから現れてくるものだと述べてきました。

そして全てのものは神を原因とします。

つまりこの世に表現として現れる全てのものは神を原因とした結果でると考えることができるのです。

さてここでもう一度能動的であるという事に立ち返りたいと思います。

スピノザは能動的である状態を

自らの行為において、自らの力を表現している時だと表しました。

逆に、人が能動的である時、人は他人の力をより多く表現すると述べます。

例えば自身の命が脅かされている際、

社会の中にある形式の数々

その場での、行動を決定しているのは自分自身に他なりません。

しかしその場において

私は自身の力よりも、相手の力を表現していると言えるのではないのでしょうか。

人が相手の力を表現している状態とのきそれは受動的であるのです。

私の行動を相手が包括していると表現してもいいかもしれません。

さてスピノザは人が自由であるとき、それは同時に能動的な時であると説明しました。

能動的な時とは、自身が自身の力をより表している状態のことです。

現実世界において完璧な能動性や受動性はないのです。

自由は自発性から生まれるものではナイ

人はいかに制限の多い環境においても、能動的な部分を持っています。

これは同時に

自由は自発性から生まれるものではないということでもあります。

なぜでしょうか。

なぜなら自発性には自発性を誘発する目的が必要だからです。

ではなぜ目的を持つことができたのでしょうか。

その目的が完全に能動的であることはあり得るでしょうか。

きっとあり得ないでしょう。

なぜならこの世に完璧な受動性がないのと同様、完璧な能動性も存在しないからです。

本書では

自発的に何かを行おうとする際は

それはただ単に、自発性を引き起こしている原因を捉えきれていなからだと説いています。

さて自発的であるということが、自由出ないなら

一般に言われる自由意志とは何を指しているのでしょうか

自由意志とは、人間には自由な意思がありその自由な意思により自身の行動などを決定しているという考えです。

この考えはさまざまな議論の中で基礎の基礎を形作っているのではないのでしょうか

そしてスピノザは自由意志についても、自発性と同じようにその考えを否定します。

彼らの自由な概念なるのは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのでると説いています

私たちは自身の意志を自由だと感じるのは、意識が常に結果を見ていることにあります。

私たちは普段、自身に意識があることを知っています。

そしてその意識によって自身に意思があるということを感じています。

しかし私たちの意志は、ドミノのようなものです。

常に選択をしているというよりも

選択をしてきた結果を見ているという方が正しい表現なのではないのでしょうか。

しかしこの瞬間において、次に来るであろう結果が意識的であるという自由意志のようなものが人にはあります。

自由意識的感覚あるかもしれませんが、本質的に自由であるわけではないと本書では説明しています。

また人は意志によてのみ行動や行為を決定しているわけではありません。

人の行動には多くの無識が存在しています。

例えば文字を読んだり、歩いたり、話している時でさえ人は無意識に言葉を編み上げます。

例えば初めて英語を喋ろうとする時、多くの人はとても苦戦します。

知ってるはずの単語も思いつかず、頭が真っ白になるということも多くあるのではないのでないでしょうか。

この時、人は意志のほかの様々な自身ではコントロールできない要因によって

自身の常にアップデートしており

その中無数の関数の結果を意識により見て、意志として認識していると言えます。

意思は問題解決への

完璧な切り口ではない

本書では、今日において意志という概念があまりにも、大きな支持を集めていると言います。

意志という概念は問題解決をする際の切り口としては良くはありません。

例えば、アルコール依存症の人が、アルコール依存へなってしまう理由は意志の強さとは関係ありません。

またここでいう意志の強さという概念はあまりにも多くの要素を含んでいます。

本書は、西洋的な意志という概念は実は、ギリシャ時代には存在していなかった付け足しています。

また他にも不登校の問題などについても

生徒の意志を尊重することは問題解決という点において必ずしも明確な切り口でないと解きます。

なぜならこれまで述べてきたように、人が完全に能動的である時や受動的である時は存在しないからです。

様々な要因はの解決方法は個人の課題に行き着くことが往々ですが、その課題が必ずしも、本人の力をより表しているとは限りません。

社会のあり方

実に、光が光自身と闇とを顕わすように

真理は真理自身と虚無との規範である

とスピノザは述べます。

これは

ある真理の定理のようなものがあり、全てのものはその定理によって表せるとしましょう。

この時、この定理が本当に真理の定理であるという事を顕すには、その定理を証明できる他の定理が必要になります。

そしてこの循環は永遠と続き….

このことから、スピノザは真理の定理は、その真理の定理によってその真理を確かめれるものでなければならないと考えたのです。

そしてその定理は真のみではなく偽をも定義してくれる

そんなものであるというのです。

しかしそのなものが本当に存在するのでしょうか。

ということでここからは真理について書いていきます。

現代においての真理の基準とは明晰判明であると筆者は解きます。

近代科学の方向性を作った一人にデカルトという哲学者がいます

「我思う、ゆえに我あり」という命題で知られています。

デカルトは全てのものを疑い尽くし、そして

今考えているこの私を疑うことはできない

という結論に辿り着きました。

デカルトの真理観の特徴は、考えを公的に人を説得するものとして位置付けているところだと本書は解きます。

実際に「我思う、ゆえ我あり」を否定することはできないと言っていいのではないのでしょうか。

なぜなら「それって本当?」と質問したらそれは「我思う」に組み込まれてしまうからです。

つまり、反論を受け取ることのない定理に重きをおいているのです。

これは疑うことを基礎として作り上げた定義だという事を考えるとガッチガいきます。

スピノザは、自身と真理との関係性により重きをいていました。

真理たるものをどう理解するか、について考えたわけです。

スピノザは真の観念を有するものは同時に、自身が真の観念を有することを知ると解きました。

しかしこれは逆に、真の観念を有さない人には、自身が真の観念を有すかわからず、またないが真の観念たりうるかも分からないということになります。

スピノザは見たことがないもについて考えを巡らしても、本当にそれが合っているか理解することはできないと説きます。

スピノザは自由への哲学と言えます。

そして自由であるとは、絶対的な制限の中で、いかに自身を表現するかです。

この考えは、極端に言えば自身の生き方を、全て自身の中の関係性によって切り開いていくことです。

本書ではこのような考え方はある意味で密教的であるかもしれないと説いています。

デカルトとスピノザの真理観の違い

デカルトとスピノザの真理観の違いについてミシェル フーコは「主体の解説学」という議事録の中でかつて真理は経験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。

ある真理に到達するには主体が自身の殻を破っていく必要があると考えていたわけです。

フーコはこの考えが17世紀ごろに大きく変わったと説明します。

フーコはそれを「デカルト的契機」と呼び、

デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象となってしまったと説きます。

デカルトの真理とは真理が全ての批判を跳ね返した時です。

デカルトは自身の感覚を疑いました。

そのため真理を導き出すには、自身の感覚するらを超越した完璧な存在である神の証明が必要だと説いています。

それと違いスピノザは真理の主体の変容を通して獲得されると考えていました。

ここまで述べてきたようにスピノザは結果と原因の関係を

原因が結果を引き起こすという時間的な流れに沿った概念としてではなく

原因は結果の中で自らの力を表現しているものだとして捉えました

つまり主体の変容とは、真理の獲得をする過程において、変容という形で力を表現しているものとして考えることができます。

デカルトは神への存在の存在証明について三つの証明を提示します。

そして最後の証明において

神の存在は、単に神を本性を思考するだけで認識される

と説いています。

これは神が全ての存在、実在性を含んでいるならなら

実在性は完全性の一部である、そのため実在に神が存在するとういことになるということです。

そしてデカルトはこの証明において、

他方、神の観念も観念である限り 私的なものでしかありえない。とりわけ探求の当初においては、私たちはまことに様々な、そして明晰性に欠けた神の観念をもっている。それゆえ、私たちは、さらに神について熟考し、神の観念を練り上げなければならない。私たちが神の実在を「おのずからに」認識するのは、そのような神の観念の 精錬 を経た後に、である

と説明しています。

つまりデカルトは神は「おのずから」認識されるものだとして

さらにその認識には、かみの概念を明晰に練り上げる必要があると考えていたのです。

いかに、公的な神の存在を証明したとしても、個人としてその存在を腑に落とすには、時間をかけ、神の観念に向き合う必要があると考えたのです。

デカルトはある種の真理が、主体の変容を要求することをわかっていたのではと本書は説明しています。

今回の読書感想文は

はじめてのスピノザ 自由へのエチカ

について

以上、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

長文に重ね、私の文章力、分析力のなさが溢れていった文章だったかなと思っております。

何かしら皆さんの為になる箇所があれば幸いです。

今回の本は個人的にとても面白かった。

特に自由の概念を社会的な概念に落とし込むところ

限られた必然性の中においていかに自由であることを表現するか。

私では一生賭けても辿り着けなさそうな高度さでした。

ぜひ、読んでみてください。

amazonにはこちらから

上のURLはアソシエイトリンクになっています。踏んでいただけると大変ありがたいです。

コーヒーを買うのに使わせていただきます。


ここまでお読みいただいた方々本当にありがとうございます。

ほんの少しでもお役に立てる場所ありましたら幸いです。

心より感謝申し上げます。

kiyo.

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