AI作品は人の為になるのか『一般ブログ』

さてAIの作った作品は素晴らしい…
感動を与えてくれるものであることは間違いない。


しかし最近、AIの作品が人の人生に意味をもたらす可能性は意外と低いのではと思うようになった。
少なくともAIを表現のツールとして使うということに関して。

今の状態は例えるなら、可愛い女の子とに毎日囲まれている状態である。
(こんな例えが嫌いな方申し訳ない)
この可愛い女の子とはそれぞれを個性を持っていて、時として物凄い刺激を与えてくれる。

面白いのは、この可愛い女の子とはすぐに分身を作ることができることだ。
詰まるところAIの作品、独自性を保つことがものすごく難しい。

これは良いことでもある。
人から認められた特性はさらに人から人へと移っていき、さらに磨きがかかる。

毎日、さらに可愛い女の子とが生まれる。
なんて幸せなんだろう….とは意外と多くの人はならないだろう。

つまるところ、幸せとはいかに現在の状態に執着してるかなのではないかと思うのだ。
さらに可愛い女の子に明日会えると思って、今日の女の子と過ごすことほど、虚しいことはない。

人の作ったものは進化をしていくものだ。
AIもそうである。

AIがいいコンテつをたくさん作ってくれることはとても嬉しいことだ。
面白いコンテを観れるのは楽しい。

しかしそこで幸せを手にするのだろうか。

つまりここでいうコンテンツとは進化の過程にある産物なのである。
もちろん進化の過程にあることは当たり前のことだ。
全てのものは変化する。

その延長線上で考えるとAIやネットの中で起きている変化はとても前向きなような気もする。
しかし今日生まれた人が今日の内に死ぬ世界において、人が幸せであることはできるのだろうか。

多分、人はそんなものを見せられても「おぉぉ」となるだけだ。
「おぉぉ」となったらなぜ「おぉぉ」となったのかを考える時間が必要である。
しかしながらその「おぉぉ」と思った理由すらも包括したようなコンテンツが次の日に出てくるとしたらどうだろうか。

多分僕は、生きる意味をなくす気がするのだ。

人は自身がフィードバックを返すことのできないコンテンツへ興味を失う気がするのだ。
ではコンテンツの方から人にフィードバックをもらいにいくべきなのだろうか。
多分それはすでに行われているものだろう。
しかしながらいいねボタンを押したところで幸福度が格段に上がるわけでも
ムフムフ顔でベットの横を40回も歩き回れるわけではない。

そもそも、人は自身が過程に組み込まれることを好まない。

つまりある状態Cを目指すために現状Aに対してBというフィードバックをあげることは好むものの、
Cになりうる状況でそのきっかけとしてのBというフィードバックをあげることは好まないのではないのだろうか。

さらに問題なのはAIの世界においてこのBとう変数を作る人は意外と誰でもいい。

社会はさまざまな仕組みの中で動いていると思う。
そして多くの場合それを明確に意識することはあまりない。
しかしその一番の原因は社会の仕組みがある程度長く、そして大きなスパンで動いていたからだと思うのだ。

フィードバックの反映の速さと、視覚化の進歩によって、自身がアルゴリズムの中に組み込まれたただの肉片でしかないと感じることができるようになってしまったらどうだろう。
そこで人生に意味を見出せるだろうか…
私はそうではないと思うのだ。

ここまで話はドーパミンとは無関係で
私はビジネスに関しては全く無頓着だが、新しいものがポコポコ生まれる世の中は刺激を作ることに関しては優れていると思う。
しかし人のため(人生のため)になるかと聞かれると、意外とそうでは無いんじゃ無いかなと思いつつ
どーやってお金稼ごうと思う最近です。

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