今回は中世スコラ哲学とトマス・アクィナスについて書いていきたいと思います。
トマス・アクィナス(1225年頃 – 1274年)は、スコラ哲学を代表する哲学者であり神学者です。彼は特にアリストテレスの哲学をキリスト教の神学と統合することに努めました。アクィナスの論理学的アプローチは、アリストテレスの影響を強く受けています。
論理がなぜ論理として動くのかというのは大きな疑問ではないでしょうか。
アリストテレスは古代ギリシャで生み出された論理を体系化し三段論法を作り上げました。
今回はその三段論法を現代に引き継ぐ波を継いだトマス・アクィナスと中世スコラ哲学に継いて書いていきます。
どんな時代だったのか。
中世スコラ哲学とトマス・アクィナスの論理学に関する関係性を理解するためには、当時の哲学的背景と、アクィナスがどのようにその論理学を発展させたかを考察する必要があります。
中世スコラ哲学は、西洋中世のキリスト教思想を体系化しようとする哲学的運動が盛んだった時代です。
主な背景にはローマ帝国が崩壊があります。
ローマ帝国の崩壊後キリスト教会(特にカトリック教会)の影響力が大きくな、そのためキリスト教の教義を理解し、教会の教えを体系化することが求められようになりました。
その中で生まれたのがスコラ哲学です。
教会は、聖書の教えを理性的に解釈し、異端を排除しながら教義の一貫性を保つ必要がありました。スコラ哲学は、このような神学的問題を解決するために、理性と信仰の調和を目指しました。
教会が知識の中心であり、学問の主要な場でもあったため、哲学や神学の議論は教会と密接に結びついて発展していきました。
その時代の中、スコラ哲学に大きな影響を与えたのがリストテレスの倫理学です。
アリストテレスの著作は、古代ギリシャからローマ帝国を経て、西洋世界に伝わったものの、ローマ帝国の崩壊とともに、特に西ヨーロッパではその影響力が減少しました。
中世初期は、キリスト教教義に基づく思想が優勢であり、哲学的探究の主な焦点はプラトンや聖書の解釈にあり、アリストテレスの考えはあまり注目されていなかったと言えるでしょう。
しかし、12世紀から13世紀にかけて、アリストテレスの著作がイスラム世界や東ローマ帝国(ビザンティン帝国)を通じて、西洋に再び伝わるようになりました。特に、イスラム世界の哲学者たちがアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳し、それがさらにラテン語に翻訳されたことで、アリストテレスの論理学や形而上学が再び注目されるようになったのです。
理性的な思考とキリスト教的信仰をどのように組み合わせるかという議論をしっかりと表面化したものであると言えるかもしれません。
トマス・アクィナス(1225年頃 – 1274年)は、スコラ哲学を代表する哲学者であり神学者です。
彼はアリストテレスの哲学をキリスト教の神学と統合することに努めました。
そのため今日は主にトマス・アクィナスを中心として記事を書こうと思います。
アクィナスの試み
アクィナスは、アリストテレスの論理学、特に三段論法を用いて、神学的命題を論証しようとしました。彼は論理的な証明を通じて神の存在や宗教的教義をより確固たるものとしたと言えます。
少し話がそれますが同じ時代、イスラム世界の哲学者アベロエスのアリストテレス解釈も存在しました。アベロエスのアリストテレス解釈は、アリストテレス哲学とイスラム教神学を統合しようとするものであり、スコラ学者の思考に刺激を与えました。
アクィナスは「存在」と「本質」を区別し、事物の本質(エッセンス)が神の創造に由来するという考えを論理的に展開しました。これは彼の有名な「存在論的証明」にも関連しています。
また形而上学や倫理学の分野でも論理的なアプローチを取り、善や悪、幸福、徳といった概念を理性的に分析しました。彼の道徳哲学も、論理的な枠組みの中で発展させられています。
アクィナスは「五つの道(Quinque Viae)」と呼ばれる神の存在証明を論じていまが、これらの証明の中で、以下のような三段論法を取り入れています。
運動の証明(第一の道)
動くものはすべて何かによって動かされる。その最初の動かすもの(不動の動者)は神である。
• 原因の証明(第二の道)
すべてのものには原因があり、最初の原因(第一原因)としての神が存在する。
• 必然性と可能性の証明(第三の道)
存在するすべてのものは、存在しない可能性を持つが、すべてのものが一度に存在しないとすると、何も存在しないことになる。したがって、必然的な存在者としての神が必要である。
• 度数の証明(第四の道)
善や真理、美などの性質は度合いがある。これらの最高度に達するものとしての神が存在する。
• 統率の証明(第五の道)
自然界の秩序は偶然ではなく、目的を持って動いている。これを設計した存在としての神がいる。
この一連の証明により神の存在について説明をしようとしました。
善や美などに度合いがあるという考えや、全てのものは目的を持っているという、あるものを会う場所をゴールとした過程の中にあると捉える考え方が全面に押し出されていることがわかります。
アクィナスの存在論
ここからはアクィナスの存在論(ontologie)について書いていこうと思います。
アクィナスの存在論は神という完璧なものをどのように私達の見ている世界と結びつけるかという点においてとても面白い見解を与えてくれます。
アクィナスの存在論(ontologie)は、事物の「存在」と「本質」を区別することに大きな焦点を当てています。
ここでいう存在とは、ものが「存在している」という事実そのものを指します。
たとえばアクィナスによれば、「人間の本質」は「理性的な動物であること」などが本質にあたります。
しかしアクィナスは言葉をツールとして捉えていました。
もし人が理性を通じて本質をある程度理解できると考えれるのであれば言葉や概念は、この本質を表現するための手段です。
人間の理性がある存在の本質を理解し、それを言語化することは可能です。
この点で、言葉は本質をある程度捉えることができるとアクィナスは考えていました。
同時にアクィナスは人間の言葉や理性には限界があるとも認識していました。
特に、神の本質について語る際、言葉や概念は不完全であるとしています。神は完全で無限の存在であり、人間の有限な理性や言葉では神の本質を完全に理解し、表現することはできないと考えました。
例えば、アクィナスは神について語るときには「アナロギア(類比)」を用いることを主張しました。
これは、神の本質を人間の言葉で直接的に表現することができないため、類似の概念を用いて間接的に語るという方法です。たとえば、神の「善さ」を語るとき、人間の善さと神の善さは本質的に異なりますが、何らかの類比を使って説明することができるという考えです。
話を戻しましょう。
アクィナスは神は「存在そのもの」(ipsum esse subsistens)としました。
これは、神の本質が「存在であること」そのものであり、神の存在が何者かに依存しているのではなく、自らの存在の原因であるという考え方です。
一方、神以外のすべての存在においては、存在と本質は区別されます。アクィナスは、事物の本質がその存在を決定するが、それは神によって与えられるものであり、自らの力で存在を有するものではないと考えました。
たとえば、「人間」という概念の本質は、「理性的な動物」という性質を持っていますが、これだけでは人間は存在していません。人間が実際に存在するためには、神がその存在を与える必要があるのです。この意味で、存在は神の意思によって与えられるものであり、本質から派生する形で存在が現れるとされます。
アクィナスの存在論において、神はすべての存在の原因であり、神の意志によって存在が与えられています
これは、神が本質(エッセンス)を持つものに存在を与え、その存在が神の意志に基づいているという考え方です。
この点に関して、「自然法で絶対であることにおいて神は存在を与えないことを許されない存在である」という見方は、神の性質と神の意志に関連しています。
アクィナスにとって、神は善の究極的な存在であり、存在を与えること自体が神の善性の一部です。神が存在を与えないことは、その善性や意志に反するため、論理的に許されない、または考えられないという結論に至ります。
それをベースとしたものとしてアクィナスの倫理学が出来上がります。
まとめ
アクィナスは、人間の最終的な目的は「至福」(beatitudo)にあるとし、これは神との一致によって達成されると考えました。
アクィナスは「自然法」という概念を用いて、善悪を論理的に分析しました。
自然法とは、私達が導き出す論理などは人間の理性によって把握される神の永遠法(eternal law)の一部です。
人の理性により見出すことのできる神により作られたこの世界の一部、それゆえに善であると確定されたものでもあります。
三段論法の例を使い整理すると、
- 前提1: 神の法に従うことは善である。
- 前提2: 神の法は人間の理性に自然法として現れる。
- 結論: よって、自然法に従うことは善である。
と解釈できます。
アクィナスの統率の証明(目的論的証明)は、自然界の秩序が偶然ではなく、意図的な設計によるものであると主張しています。
アクィナスの思想では、自然法は神の永遠の法(eternal law)の一部であり、自然界に存在するすべてのものが神の意志と目的に従って動いているとされます。
人間の理性は、神が創造した秩序や目的を認識する能力を持っており、その結果として自然界に見られる目的性を理解し、道徳的に行動することができます。
したがって、自然法に目的があると感じるのは、単に人間の主観的な認識によるものではなく、神が意図した客観的な現実を理性を通じて理解しているということです。
そこから人間を含むすべての存在は、この法則に従って行動することが期待さるという考えが生まれます。
人間の理性に重きを置く流れにより決定的とも言える釘を打ったと捉えることもできます。
アクィナスの手法では、神や世界の秩序を説明するために経験的な観察や論理的な推論を駆使しました。この論理的推論の重視が、理性を基盤とした思考方法を促進し、デカルトやスピノザといった近代の理性主義哲学者に大きな影響を与えます。
またアクィナスは自然哲学(今日の科学)にも影響を与えました。
彼のアプローチが自然の現象を理性を通じて理解しようとする姿勢を強調したことで、後の近代科学の誕生に貢献しました。
自然界の秩序や法則が神の意志に基づいているとする彼の考えは、理性によって自然を探求し、理解しようとする科学的精神を育む一因となったと言えます。