今回読書感想を書かせていただく本は、ギリシャの哲学者セネカが書いた手紙が元で作られた「人生の短さについて」です。
人生を生きていく上で避けられない運命とどう付き合うか。
そしてその運命の中を自身の足で歩んでいける賢者とは何かについての本です。
今回は本書の中心となっている賢者とは何かについて書かれた記事だと思って読んでいただけると嬉しいです。
この世で唯一変わらないこと
セネカは賢者を自分自身によって生きている存在と定義づけていました。。
この世に自分の手によってコントロールできるものは自分の精神以外ないと考えたためです。
(ギリシャのストア哲学が大きな影響を与えている)
セネカは次のように言っています。
何物も同じ場所に留まり続けるわけではない
精神のあり方が大切である
「人生の短さについて」
実際にこの世にありとあらゆるものは変化します。
しかし、なぜセネカは精神が大事だと説いたのでしょうか。
それには人生を歩む上で、何に人生の目標を置くかが関わっています。
人生の目標とはすなわち、人生の価値を決めるものです。
セネカは精神こそが、人生の中で最も価値を奥に値すると考えました。
そしてそのような生き方をする人を賢者と呼んだのです。
セネカは賢者には所有物がないと説明します。
この世の全てのものは自分の体を含め、自分で作りあげたものではありません。
生きるということは、体やその他諸々の事を自分以外のものから借りているだけであるという事です。
運良く、お金を手にしたとしましょう。
この時このお金が運悪く自分の手元を離れてしまうことがあるかもしれない。
頑張って集めた、コレクションの数々が一瞬にして消え去ることもあるかもしれません。
しかし、常に移り変わる世界において、自身に降りかかった運命から逃れることはもできません。
何かを保つ、何かを手に入れることは自分だけでコントロールできることで無いのです。
セネカは詩人のプブリリウスの詩を引用してこのように言っています。
「誰にでも起こりうることは、誰にでも起こりうるう」
例えば、明日の朝両親が死んでいたり
車に轢かれ、手足がなくなるかもしれない。
運命の力がどれほどにも逃げを許してくれないのかを知っておくべきである。
私たちがすがっている価値というものが如何に簡単に崩れ落ちてしまうかについて説きます。
その上でセネカは運命に翻弄されない生き方をすることは重要だと述べ、精神を中心として人生を生きていく重要性をのべます。
我々の外部で起こることはさして影響を及ぼしません。
運命を信用したことなど一度もありません。
運命は私に慈悲深くも財産と地位と権力を恵んでくれました
しかしそう言ったものは全て、運命が取り返して言っても心が乱されない場所に置いてあります
運命はそれを持ち帰るだけで私から強奪はしていかないのです
「人生の短さについて」
また次のようにも述べています。
賢者は環境によって、一喜一憂したりはしません。
なぜならば彼らは自分自身に頼り喜びを自身の中から見出すからです
とても仏教っぽいと思わないでしょうか
自分の持っているもの全てが明日には無くなってしまっているかもしれない。
もしその事を受け止め生きることができたなら、将来に対しての不安はなくなると思わないでしょうか
人はなぜ人生に迷うのか
自分の人生を生きる人についてセネカは次のように言っています。
すべての時間を自分のためだけに使う人、毎日を人生最後の日のように生きる人は、明日を待ち望むことも、明日を恐れることもない。というのも、[未来の]ひとときが、彼にどんな新しい楽しみを与えうるというのか。彼は、すべてを知りつくし、すべてを十分に味わっているのだ。
「人生の短さについて」
しかし、現実の世界では違います。
人は確実性を求めながらも、不確実な存在を日々追い続けています。
セネカは多くの人が、人生の解決策や、糸口を知らずに生きていると説き
そのために、幸運の尻尾がちらつけば、自分の命をかけたような賭けにでたり
積み重ねた財産や地位にしがみついた生き方しか知らないのに、財産や地位の保ち方もよくわからないといった状況になると説きます。
セネカはいいます。
このような人たちについて、もうこれ以上語る必要はないだろう。彼らは、他人の目にはとても幸福に映る。だが、当人たちは、自分自身を告発する真実の証言を述べたのだ。なしにろ、彼らは、自分が人生で為したことすべてを呪っていたのだから。ところが、これらの人たちは、その嘆きによって、他人を変えることはおろか、自分を変えることすらできなかった。
その中で、そのような生き方の状況を最も象徴している、多忙について説きます。
生きるということから最も遠く離れているのが、多忙な人間だ。生きることを知るのは、なによりも難しいことなのだ。ほかの技術の教師なら、どこにでもたくさんいる。なかには、年端もいかぬ子どもが習得してしまい、それを教えられるまでになった技術さえ目にする。しかし、生きることは、生涯をかけて学ばなければならないのだ。さらにいえば――あなたはいっそう驚くことだろう――死ぬことも、生涯をかけて学ばなければならないことなのだ。
どのように地位を築くか…
どのように地位を保つか…
不確実なものは、手に入れたところで人生に安定を与えるどころか、その安定をさらに脅かし続けるだけであると説きます。
セネカだからこそ、自身の手に負えないもには執着せず、その時その時自分の出来ることをやればいいでは無いかと説きます。
自分の意図しない出来事にふり回されない。
自身の人生の価値を自分の手の中に持っていれば、不幸になることも、周りの環境に一喜一憂する必要もないというのです。
ここで重要なのはセネカは、権力やお金を完全に批判しているわけではありません。
ただ、多くのものは人生を預けるのに値するものでもなく、人生の価値を決定するものでもない。
そんなものに自身の限りある時間をかける必要はなく、人生はたいして価値のないものに注ぐほど長くないと説いているのです。
それに重ねセネカ、やりたいこと、欲しいものがあるなら、行動に移すべきであるとも述べています。
セネカは言います。
多くの人は自身のやりたいことを、実際にやったり、追い求めたりしない
全てを願望することしかできないのだ。
「人生の短さについて」
そんな状態でどうにかして解決策を見つけようと手をこねかし辿り着こうとしても、それは闇の中を手探りで歩いているようなものだといいます。
セネカは続けて次のように言います。
そのような状況で失敗をすると彼らは挑戦したことを後悔して、今度は挑戦することが怖くなる。
さらには、行き先の見えな、解決策もわからない道の真ん中で人々は思うようにいかない人生に迷い始めると言います。
人はなぜ忙しさを好むのか
人は行動することを欲している。
しかしその行動が報われない時
彼らは暇な生活や、孤独な研究生活に逃げ込むのである。
このような精神には慰めはほとんどない。
それが故に多忙によりその慰めを補おうとする
しかし自分を正面から見ることを嫌うのである。
なぜこんな状況になったかを分析せず(もしくはしたくなくて)
「人生の短さについて」
しかし出口の見えない精神状態にいても
やりたいことや、してみたいことが出てくるものです。
その気持ちが欲望となるのだとセネカは説きます。
実際に考えず、行動もせず止まっているものにとって
その欲望を叶える手段は運にゆだれなれる。
それゆえ、うまくいきそうな運が視界にちらつくと歓喜し
視界から消えると消沈するのだ。
このようにたえず、歓喜し、消沈する精神状態が落ち着きなさが精神状態の動揺を常に作り出すのである。
この心はやがて嫉妬心を抱くようになります。
そして、やがて自分自身にもうんざりして自己嫌悪へと変化するのです。
人は生まれつき、活発で気が散りやすく、精神は気を引いてくれるものならなんでも歓迎するとセネカは言います。
新しい土地へ行ってもやがて飽きて、新しい土地へと移動する。
しかしその全ては逃れることのできない自分自身の中から生まれたものなのである。
どんな苦労も快楽も長続きはしないのだ。
「人生の短さについて」
公の場にいなくとも
自分自身の中に野心の翼を広げる空間はある。
何をしていて
どんな職業でも価値の差があるわけではない
国民としての義務を果たせないなら
人としての義務を果たせばいい
(自分ができる精一杯位をすればいいのだ)
「人生の短さについて」
今回、かなり大雑把にまとめましたが、今期は「人生の短さについて」の読書感想を書かせてていただきました。
哲学や思想は生き方について多くの考えを持っているかと思います。
しかし、今この瞬間を生きるということにフォーカスすることについては面白いほど一致しているのではと最近重ようになりました。
今回の記事、何かしら皆さんのためになることがあれば幸いです。
お読みいただき本当に感謝です。
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